はじめにお読みください
人が十人集まれば十通りの考え方があります。百人だと百通り。共通した部分で大きく分けることはできますが、よくきいてみると、人それぞれに哲学があります。
塗装職人が一枚の鉄扉を塗る作業をするのにも、十人の職人が集まれば、十通りの仕上げ方があります。塗料の選び方から、シンナーの希釈率、塗る回数など・・・。もちろん、どういった方法が正解だとはいえません。設計者の注文どおりに仕上げれば、どの手段を用いても問題はありません。
絵描きさんは、描きかけの絵を見られることをイヤがります。自分が思っている作業工程を、第三者が理解できるはずがないからでしょう。そして素人が見ると「もう完成だろう」と思うようになってきても、本人はまだ物足りないとばかりに筆を加えていく。納得がいくと完成なのだろう。
人生もまた、これといった正解はなく、人間を十年もやっていると、それなりの哲学が完成されていく。大多数の人が悲しい人生だと思うような人でも、本人にとっては幸せなのかもしれない。だとすれば、その人を否定する権利は誰にもない。
わたしが易と出会ったのは、うらないを勉強している歴史を振り返ると、比較的新しい。しかし、初めて目を通した瞬間から、「これがあらゆるうらないの基本だ」と直感したものだった。それまではバカにしていたにもかかわらず・・・・。
うらないは非科学的だと否定する人はいる。そんな人も少しは考えて欲しい。
普段はおとなしい人が、声を荒げて怒っているところを仮定すると、まずこの人は平常心を失っていると考えられるだろう。言っている事は、日ごろから抑えていた本音なのか、言葉のはずみでメチャクチャな事を言っているのか、判断には困るところではある。しかし、平静を失った彼のとる行動が、うまくいくとは考えにくい。
簡単にいうと、占いとはこのようなものである。今おかれている立場、考え方、過去の実績、素質など、総合的に考えて未来を予測するのである。しかしそういった作業が簡素化され、省いているように見えるから、誤解が生じやすい。
易経に精通している人の中でも、哲学書とみなし、うらないには用いない人はたくさんいます。また、易うらないのベテランになってくると、「わざわざ筮竹(易うらないをするときの道具)をさばくのが面倒だ」などといって、なにもしないで未来をズバリ的中させる人もいます。このふたつに共通する事は、易経の流れを基本として、実際に応用しているだけなのです。
将棋のプロにもなると、中盤の形勢で、終盤の形をある程度予測してしまいます。もっと具体的になると、王様がつまされる場所を的確に答えることだってあります。これは長い経験と、研究の賜物であり、あてずっぽうで言ったものがたまたま当たったわけではありません。
俗に「当たるも八卦、当たらぬも八卦」などと申しますが、この「八卦」とはまさしく易うらないのことであり、これは誤解が生じる典型的な言葉です。なぜならば、易を解釈する方法は、十人の易者が集まれば、十通りの考え方があるからです。もちろん、同じ卦で、全く相反したことをいう場合だって考えられます。すると、実際に起こった結果はひとつですから、どれかは間違っていることになります。賢明な方はお察しかもしれませんが、外れた人は「間違った」だけなのです。
巷には「易」の入門書がたくさんあります。わたしの場合、独学で学んだ事であり、解釈法も特殊だと言わざるを得ません。ですから、本格的に易を学びたい方は、このページで戻ってください。いろいろな考え方を見てみたいといった好奇心旺盛の人や、「易とはいったいなんぞや」といった素朴な疑問を持った人に、このページを開放いたします。
海外旅行へ出かけるのは、なにも飛行機だけだとは限りません。船だって立派な手段ですし、その気になればいかだで旅に出る事も可能です。また、大陸に到達すれば歩く事も手段のひとつです。さあみなさん、わたしといっしょに歩いてみませんか。
2000年2月12日 マスター