「日本史重要年代500」 高速右脳暗記 Part II
1069 記録荘園券契所
異例は無口で 記録荘園券契所 1069年
摂関家の藤原氏と外戚の薄かった後三条天皇は,券契所を設置し徹底的な
荘園整理を断行した。
1072 延久の宣旨枡(せんじます)
異例は何を計るか 宣旨枡 1072年
後三条天皇が公定枡を制定した。度量衡の統一である。
1083 後三年の役
異例は はみ出す雁の 後三年 1083年
清原氏の内紛に介入した 陸奥守 源義家は,雁の列の乱れで伏兵を知る。
義家は武士の棟梁の地位に就いた。
1086 白河院政
異例は やろうと 白河院政 1086年
白河天皇は 堀河天皇に譲位後も,上皇として院庁を開き実権を行使した。
続く鳥羽,後白河も院政を敷く。
1095 北面の武士
異例は救護もする 北面の武士 1095年
白河上皇は,院御所の北面に院警護の武士を置いた。武士の中央政界進出の
足場となった。
1124 中尊寺金色堂
いいぞ 西向くなと 金色堂 1124年
藤原清衡(きよひら)が陸奥平泉に創建した。光堂(ひかりどう)とも言う。
1156 保元の乱
いいぞ 頃は保元の 保元の乱 1156年
崇徳上皇側と 後白河天皇側が武力衝突し,源義朝が父為義を斬って後白河
天皇側が勝利した。
1159 平治の乱
いいぞ 酷な平氏の 平治の乱 1159年
義朝と藤原信頼は,藤原通憲(みちのり)(信西)を殺すも平清盛に敗れ,義朝
の子 頼朝は 伊豆に流される。
1167 平清盛太政大臣
いいぞ 空しい 清盛太政大臣 1167年
武士の棟梁で初めて太政大臣になった清盛は,娘徳子を高倉天皇の中宮に入れ
安徳天皇の外祖父となった。
1175 法然が浄土宗開く
いいぞ 和(なご)みの 法然浄土宗 1175年
叡山の天台学僧法然は,源信の往生要集(おうじょうようしゅう)から浄土宗を
開宗し,専修念仏による他力本願を説いた。
-110
1177 鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀
いいぞ な!なんと 鹿ケ谷 1177年
院の近臣らが,京都東山鹿ケ谷の俊寛(しゅんかん)の山荘で,平氏打倒計画を
立てて露見し,一味は処罰された。
1180 頼朝挙兵
いいぞ 晴れて挙兵の 頼朝 1180年
義朝の子頼朝は,平治の乱後,伊豆の蛭島(ひるがしま)に流されていたが
1180年 以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)に応じて挙兵した。
1180 侍所(さむらいどころ)
いいぞ 晴れて設置 侍所 1180年
鎌倉に設けられ,御家人の統率と軍事・警察の任に当たった。長官は別当。
1184 公文所(くもんじょ)
いいぞ 端に置く 公文所 1184年
鎌倉幕府の文書作成,財政を担当する機関で,長官は別当。
1184 問注所(もんちゅうじょ)
いいぞ 端に置かぬ 問注所 1184年
鎌倉幕府の訴訟,裁判処理機関で,長官は執事。
1185 平氏滅亡
いいぞ 箱入り 平氏滅亡 1185年
源頼朝は弟の 範頼(のりより) 義経(よしつね)を使い 京都の 源義仲を また
平氏を 一ノ谷,屋島,壇ノ浦で破り滅亡させた。
1185 守護・地頭
いいぞ 箱庭の 守護・地頭 1185年
鎌倉幕府の軍事・警察権掌握の為の地方機関である守護と,土地管理,年貢・
兵粮米の徴収,治安維持の為の地頭が設置された。
1189 奥州藤原氏滅亡
いいぞ 箔の剥がれた 奥州藤原氏 1189年
藤原泰衡(やすひら)は,頼朝の要求に屈して衣川(きぬがわ)の館(たて)に,
義経を攻めて自殺させた。その後,頼朝は,義経をかくまった事を理由に
奥州征伐を決意し,奥州藤原氏を滅ぼした。
1190 政所(まんどころ)
いいぞ 苦を無くす 政所 1190年
頼朝が右近衛大将に任じられて後,公文所を政所と改称,公文所はその一部局
となった。
1191 栄西が臨済宗を伝える
いいぞ 悔い無し 栄西臨済宗 1191年
栄西は 叡山の修行の後,二度入宋して 臨済禅を伝え,建仁寺を建てて 臨済宗
を開いた。
-120
1192 頼朝征夷大将軍
いいぞ、国作ると 頼朝大将軍 1192年
征夷大将軍に叙任された源頼朝は,鎌倉に幕府を開く。武家政権が確立した。
1203 比企能員(ひきよしかず)の乱
意地で おっさん比企の乱 1203年
外戚として権勢を得たが,北条氏追討を計画して失敗,時政に殺された。
1203 北条時政が執権政治始める
意地で おっさん 時政執権 1203年
頼朝の妻政子(まさこ)の父時政は,比企の乱後,初代執権となり, 1204年に
頼家を謀殺,翌年実朝(さねとも)の殺害を謀ったが,失敗して引退した。
1205 畠山重忠の乱
意地で 怠らず 畠山の乱 1205年
子の重保(しげやす)が,時政に謀殺され,重忠(しげただ)も義時と戦って戦死
した。
1205 新古今和歌集
意地で 怠らぬ 新古今 1205年
後鳥羽上皇の命により,藤原定家,家隆(いえたか)らが編集した,第8番目の
勅撰和歌集が完成した。
1213 和田義盛(よしもり)の乱
意地で 勇んだ 和田義盛の乱 1213年
和田義盛が北条義時の謀略に掛かり,鎌倉で挙兵して敗死した。以後,政所
別当であった義時が,侍所別当をも兼ね,幕府政務の中心となった。
1219 実朝(さねとも)暗殺
意地で 行く地獄 実朝暗殺 1219年
3代将軍実朝は,鶴岡八幡宮で,兄頼家の子公暁(くぎょう)に暗殺された。
1220 「愚管抄」(ぐかんしょう)
意地で 荷を背負えと 愚管抄 1220年
慈円(じえん)の書いた歴史書で,道理と末法思想で歴史を見る。最初の歴史
哲学的著述である。
1221 承久の乱(じょうきゅうのらん)
意地で 不意打ち 承久の変 1221年
後鳥羽上皇は,反北条で挙兵したが,北条政子の活躍で惨敗し,隠岐に配流さ
れた。 以後,六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置。
1221 六波羅探題
意地で 不意に作る 六波羅探題 1221年
承久の乱に際し,京都に攻め上った北条泰時・時房(ときふさ)を,乱後も京都
に留め,朝廷の監視と,尾張以西の御家人(ごけにん)の統括に当たらせる役職
を設けた。
-130
1223 新補率法
意地で 2,3の取り決め 新補率法 1223年
承久の乱後の新補地頭の得分[収益]の法定率を制定した。
1224 親鸞(しんらん)が浄土真宗を始める
意地で 不死説く 親鸞浄土真宗 1224年
師法然の「専修念仏」を「念仏往生」へ。弟子の唯円の書いた「歎異抄」(た
んにしょう)には,悪人正機(あくにんしょうき)の思想がある。
1225 評定衆(ひょうじょうしゅう)
意地で にご11人の 評定衆 1225年
北条泰時は,10余名の評定衆を任命し,執権と共に裁判・政務を合議させ
執権政治を強化した。
1227 道元が曹洞宗を始める
意地で 不仲な 道元曹洞宗 1227年
初め栄西に学ぶも,越前永平寺に籠もり,只管打坐(しかんたざ)(坐禅に徹し
自ら悟る)を説く。著作に「正法眼蔵」(しょうほうげんぞう)。
1232 御成敗式目(ごせいぱいしきもく)
意地で ミニ法典 御成敗式目 1232年
武家最初の体系的法典で,所領争い裁定の公平な基準を決めた。51か条から
なり,貞永式目(じょえいしきもく)とも言う。
1247 宝治合戦(ほうじがっせん)
意地で 死なむと 宝治合戦 1247年
北条時頼と三浦泰村が,鎌倉で戦い,三浦一族が滅んだ。
1249 引付衆(ひきつけしゅう)
意地で 良く働く 引付衆 1249年
北条時頼は,引付を設置し 評定衆から撰ばれた頭人(とうにん)のもと,引付
衆が御家人の訴訟の迅速化に努めた。
1253 日蓮が法華宗を開く
意地で 誤算の 日蓮法華宗 1253年
日蓮は「立正安国論」(りっしょうあんこくろん)を書き題目唱和で成仏出来
ると,日蓮宗(法華宗)を起こす。徹底した他宗批判から,幕府の迫害を受ける。
1260 立正安国論
意地で 無礼な 立正安国論 1260年
日蓮が前執権時頼に提出した建白書で,念仏の邪法を禁じないなら,自国の
反乱と他国からの侵略があると予言した。伊豆流罪の因となった。
1274 文永の役
意地で 無し崩す文永の役 1274年
フビライの元軍が襲来,博多に上陸し激戦の後撤退し,帰路台風で壊滅した。
-140
1275 金沢文庫
意地で 名後生に 金沢文庫 1275年
北条実時(さねとき)が,武蔵国六浦荘金沢の別邸内に開設した私設図書館。
1281 弘安の役
意地で 敗走さす 弘安の役 1281年
元軍の再度の襲来を,博多湾一帯に石塁を築いて上陸を阻止し,敗走させた。
1285 霜月騒動
意地で 矢事起こす 霜月騒動 1285年
9代執権北条貞時(さだとき)の外戚,安達泰盛(やすもり)の勢力を恐れた
内管領(うちかんれい)平頼綱(よりつな)が,安達一族を討伐した。以後,
内管領の専権が強まり,得宗専制支配が確立した。
1293 鎮西探題
意地で 組み敷く 鎮西探題 1293年
西国防備と九州統治強化の為博多に設置し,北条氏一族を任命した。
1297 永仁の徳政令
意地で 急なお達し 徳政令 1297年
貨幣経済浸透や,元寇の負担で窮乏した御家人の救済に,質入れや売却した
御家人領を無償で取り戻させた。その後,御家人は金策の道が塞がれかえっ
て困窮した。
1317 文保の和談
一味 いーなと 文保の和談 1317年
幕府の提議で皇位継承の順序を巡って行われた両統の和談。十分な合意の
ないまま,翌年花園天皇[持明院統]から,後醍醐天皇[大覚寺統]への譲位が
実施された。
1324 正中(しょうちゅう)の変
一味 西向けと 正中の変 1324年
後醍醐天皇は側近の公家,日野資朝(すけとも)・俊基(としもと)と,倒幕を計画
したが露見し,資朝は佐渡に流された。元弘の変で二人とも殺された。
1331 元弘(げんこう)の変
一味 散逸 元弘の変 1331年
後醍醐天皇の再度の倒幕計画は密告により失敗し,天皇は隠岐に流された。
1333 鎌倉幕府滅亡
一味 散々 鎌倉滅亡 1333年
足利尊氏(たかうじ)が六波羅を陥れ,新田義貞(よしさだ)が鎌倉を攻めて,
北条高時以下一族は自殺した。
1333 記録所・雑訴決断所
一味 燦々 雑訴決断所 1333年
建武の新政の主要政務機関として,記録所は一般政務を担当,雑訴決断所は
専ら所領問題などの訴訟を裁決した。
-150
1334 建武の新政
一味 見よがし 建武の新政 1334年
正中・元弘の挫折を乗り越え,ついに幕府を滅亡させ,古代的天皇親政を復活
させようとしたが,尊氏の反乱で,3年足らずで崩壊した。
1334 「二条河原落書」
一味 見よこれをと 二条河原 1334年
政庁に近い京都二条河原に貼りだされた落書。新政の失政を鋭く批判・風刺
した長詩で,当時の混乱した世相・人情を知る貴重な資料。
1335 中先代(なかせんだい)の乱
一味 見殺し 中先代の乱 1335年
北条高時の子時行(ときゆき)が鎌倉幕府の再興を図って起こした兵乱で,
足利直義(ただよし)を破ったが,尊氏に鎮定された。
1336 湊川(みなとがわ)の戦い
一味 見ろ最期を 湊川の戦い 1336年
九州から東上した尊氏の軍を新田義貞・楠木正成(まさしげ)軍が迎え撃った
が,正成は摂津湊川で敗死,義貞軍も敗走した。
1336 建武式目
一味 見ろ答申と 建武式目 1336年
尊氏の諮問に,中原是円(ぜえん)・真恵(しんえ)らが,17条に纏めて答申し
た。幕府の実質的な成立を示す。
1336 南北朝分立
一味 見ろ後醍醐と 南北朝 1336年
建武の新政は3年足らずで崩壊し,後醍醐天皇は吉野に脱出し,京都の北朝と
吉野の南朝が争う,南北朝の乱が始まった。
1338 室町幕府成立
一味 都へ 室町幕府成立 1338年
尊氏は,北朝の光明天皇から正式に征夷大将軍に任じられ,幕府を開いた。
1339 神皇正統記
一味 見下す 神皇正統記 1339年
北畠親房(ちかふさ)が,北朝方と対戦しながら執筆した史書で,大義名分論に
基づいて,南朝の正当性を主張している。
1341 天龍寺船派遣
一味 善い行い 天龍寺船 1341年
尊氏が,後醍醐天皇の冥福を祈るため天竜寺建立を企て,その造営費を得る
目的で元に派遣した貿易船で, 1341年足利直義が博多商人至本(しほん)を
船主に任命し,翌年派船した。
1349 鎌倉公方(くぼう)設置
一味 欲の出る 鎌倉公方 1349年
鎌倉府の長官で,尊氏が嫡子義詮(よしあきら)を鎌倉に留めて鎌倉御所と呼
んだのが始まりで,義詮の弟の基氏(もとうじ)が赴任して初代鎌倉公方とな
り,以後子孫がその地位を継いだ。関東支配を行うようになり将軍と対立す
るようになった。
-160
1350 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)
一味 呼応して 観応の擾乱 1350年
1350年直義と尊氏派の高師直(こうのもろなお)が衝突し,1351年師直が敗死
し,直義は鎌倉に逃れたが,52年尊氏によって毒殺された。
1356 菟玖波集(つくばしゅう)
一味 頃良く成立 菟玖波集 1356年
20巻・2170句。二条良基(よしもと)と救済(ぐさい)が選んだ。連歌集
最初で準勅選とされ連歌の地位を高めた。
1368 応安の半済令(はんぜいれい)
一味 むやみに 応安の半済令 1368年
荘園・公領の半分の年貢を軍費として武士に分与する権限を守護に認めた法
令で,1352年尊氏が臨時に施行した観応の半済令が,1368年の応安の半済令で
は下地の分割まで進み,武士の荘園・公領侵略を促した。
1378 義満「花の御所」に移る
一味 名は 花の御所 1378年
義満が,京都に建てた将軍邸で,完成は 1379年頃。正面は室町通りに面したの
で室町殿とも呼ばれ,室町幕府の名の由来ともなった。
1390 美濃(みの)の乱[土岐康行(ときやすゆき)の乱]
一味 苦を舐める 美濃の乱 1390年
豊かな濃尾平野の有力な守護,土岐康行が内部の紛争を利用され,謀反に追い
込まれて,潰される。
1391 明徳の乱
一味 悔い残す 明徳の乱 1391年
山名氏清(うじきよ)は,義満の挑発を受け,京都に兵を進めたが敗れた。山名
一族の領国は但馬(たじま)・伯耆(ほうき)・因幡(いなば)の3国に削られ,
勢力は一時衰えた。
1392 南北朝合一
一味 国を統一と 南北朝合体 1392年
足利義満の斡旋で,南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位して,南北朝
合体が実現した。
1394 義満太政大臣
一味 急使で 義満太政大臣 1394年
武家としては平清盛以来の太政大臣に就任した。
1397 金閣寺建立
一味 急な建立 金閣寺 1397年
義満が京都北山第(きたやまのだい)に営んだ3層の楼閣で,舎利殿として建て
られた。北山第は義満死後に鹿苑寺(ろくおんじ)となった。
1399 応永の乱
一味 汲々言いながら 応永の乱 1399年
大内義弘が,幕府の圧迫に反抗,鎌倉公方足利満兼らと呼応して領国和泉の堺
で反乱,義満に討伐された。
-170
1401 日明国交開始
意志で おいらもと 日明国交 1401年
義満が,僧祖阿(そあ)と九州の商人肥富(こいづみ)に託して国書を送った。
翌年明使が返書をもたらし,義満に日本国王の称号を与えた。
1404 勘合貿易開始
意志で 押しいだき 勘合貿易 1404年
義満が,明と勘合による朝貢貿易を開始した。勘合とは明が貿易統制の為使用
した割符である。
1411 日明国交断絶,勘合貿易中断(〜32)
意志で 言い出す 勘合中断 1411年
4代将軍義持(よしもち)は,勘合貿易は余りに屈辱的だと中止する。
1416 上杉禅秀の乱
意志で 色めく 上杉禅秀 1416年
関東管領(かんれい)を辞した上杉氏憲(うじのり)[法名禅秀]が起こした反乱
で,鎌倉公方足利持氏(もちうじ)も一時鎌倉から逃れる関東の大乱になった
が,翌年氏憲は敗れて鎮圧された。
1419 応永の外寇
意志で 行くぞと 応永の外寇 1419年
和冦を恐れた朝鮮が,その根拠地と見なした対馬を軍船200隻で突如襲撃した
事件で,このため日朝貿易は一時中断したが,1423年に修復した。
1428 正長の土一揆(しょうちょうのつちいっき)
意志で ふやけず正長の土一揆 1428年
近江の馬借の蜂起を契機に,山城から畿内一帯に波及した土一揆。
1429 播磨の土一揆
意志で 憎い赤松 播磨の土一揆 1429年
播磨1国の土民が蜂起したもので,守護赤松満祐(みつすけ)が鎮圧した。
1432 日明国交回復,勘合貿易再開
意志で 身に入る 勘合再開 1432年
6代将軍義教(よしのり)は,勘合貿易を再開した。
1438 永享(えいきょう)の乱
意志で 都に 永享の乱 1438年
鎌倉公方足利持氏が幕府に背いた為,将軍義教が討伐した。以後関東では,
関東管領上杉氏が実権を握る。
1440 結城合戦
意志で よれ集う 結城合戦 1440年
下総の結城氏朝(うじとも)が,足利持氏の遺子を結城城に迎え,関東管領上杉
憲実(のりざね)及び幕府軍と対戦,1441年結城方が敗北した。
-180
1441 嘉吉(かきつ)の乱
意志で 酔い殺す 嘉吉の乱 1441年
播磨守護赤松満祐が,将軍義教を自宅に招いて暗殺。満祐は山名氏らの幕府軍
に討伐され,赤松氏は衰退した。
1441 嘉吉の土一揆
意志で 宵に起こる 嘉吉の土一揆 1441年
嘉吉の乱後,義勝(よしかつ)の将軍就任に当たり代始めの徳政を要求して京
都に起こった土一揆。山城一国の徳政令が発布されて収まった。
1457 コシャマインの乱
意志で 小生意気な コシャマイン 1457年
アイヌの大酋長コシャマインが,和人の進出に対して起こした最初の大規模な
蜂起。蠣崎(かきざき)氏に鎮圧された。
1457 伊豆・堀越公方
意志で 小生意気に 堀越公方 1457年
足利成氏(しげうじ)が,上杉氏と対立して, 1455年鎌倉から逃れて下総国古河
(こが)に拠り古河公方となったが,上杉氏は対抗で義政の兄弟政知(まさとも)
を伊豆堀越に迎えた。
1467 応仁の乱起こる
意志で 空しく争う 応仁の乱 1467年
細川勝元と山名持豊(もちとよ)[宗全]の二派に分かれ,京都を主戦場に11年間
も戦った。その結果,公家勢力・将軍権威は失墜し,戦国時代となった。
1485 山城の国一揆(〜93)
意志で 野合して 山城の国一揆 1485年
山城の国人衆は団結して,南山城で二派に分かれて争っていた守護畠山の両軍
を追い出し8年間自治した。
1488 加賀の国一揆(〜1580)
意志で やや長い 加賀の一向一揆 1488年
一向宗の門徒である国人が,守護富樫政親を倒し1世紀に渡る自治を確立した。
1489 銀閣寺建立
意志で 箔は銀箔 銀閣寺 1489年
足利義政が,東山山荘に建てた2層の楼閣。義政死後,慈照寺(じしょうじ)と
なった。銀閣の俗称は,銀箔を貼る計画が有ったことによる。
1495 新撰菟玖波集
意志で 句語正しい 新撰菟玖波集 1495年
宗祇(そうぎ)が編集した連歌集で勅撰に準じられた。正風連歌(しょうふう
れんが)のみ約2000句を採択している。
1496 石山本願寺創建される
意志で 苦労して 石山本願寺 1496年
蓮如(れんにょ)が,現在の大阪に建立した本願寺別院石山坊。1570年から織田
信長と争い,1580年和睦の結果,退去した。
-190
1510 三浦(さんぽ)の乱
以後 入れぬに 三浦の乱 1510年
朝鮮の三浦に住む日本人居留民が起こした乱。統制が強化されるのに反発し
て,対馬島主宗氏の支援を得て蜂起したが鎮圧された。三浦とは,乃而浦(な
いじほ)・富山浦(ふざんほ)・塩浦(えんぽ)。
1514 犬筑波集(いぬつくばしゅう)
以後 意志で滑稽 犬筑波集 1514年
山崎宗鑑(そうかん)が編集した俳諧連歌集。犬は滑稽を意味する卑称。卑俗
ながら庶民の自由な明るさを示す。
1523 寧波(ニンポー)の乱
以後 にさんの争い 寧波の乱 1523年
中国の港寧波で博多商人と結ぶ大内氏と堺商人と結ぶ細川氏とのそれぞれの
勘合船が,貿易の主導権を巡って争った事件。その後,大内氏が貿易を独占し
た。
1532 法華一揆(ほっけいっき)
以後 ミニ軍団 法華一揆 1532年
京都町衆の法華宗徒が,一向一揆に対抗して,武装して山科本願寺(やましな
ほんがんじ)を襲い,これを焼き討ちした。
1536 天文法華の乱
以後 弥勒嘆く 天文法華の乱 1536年
法華宗との対立を深めた延暦寺は近江の六角氏の支援を得て,法華一揆を破
り,在京の日蓮宗寺院21寺を焼き払った。
1543 種子島に鉄砲伝来
以後 予算掛かる 鉄砲伝来 1543年
ポルトガル人を乗せた中国船が,種子島に漂着。伝わった鉄砲は戦術に大きな
変化を与えた。
1547 最後の勘合船
以後 しないと 最後の勘合船 1547年
1551年守護大内義隆(よしたか)が,家臣の陶晴賢(すえはるかた)に殺され,最
後の勘合船となった。
1549 ザビエル鹿児島へ,キリスト教伝来
以後 良く広がる キリスト教 1549年
イエズス会のフランシスコ=ザビエルが,鹿児島に渡来。中国・九州各地で
布教した。
1550 ポルトガル船平戸来航
以後 ごーサインの 平戸来航 1550年
ポルトガル船が主の南蛮船による南蛮貿易が始まる。
1560 桶狭間の戦い
以後 群れると弱いぞ 桶狭間 1560年
今川義元,4万の軍勢で上洛を図るも,3千の織田信長の奇襲に敗れる。
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