「日本史重要年代500」 高速右脳暗記 Part III
1568 信長入京
以後 牢屋の京都 信長入京 1568年
織田信長は,将軍足利義昭(よしあき)を擁立して,入京を果たした。
1570 姉川の戦い
以後 名を挙げる 姉川の戦い 1570年
近江国姉川で,織田・徳川の連合軍と,浅井長政・朝倉義景(よしかげ)の連合
軍が戦い,織田側が勝利し,信長は近江・越前を掌握した。
1571 延暦寺焼討
以後 無い寺社の 延暦寺焼討 1571年
信長は,浅井・朝倉と結んで敵対する延暦寺を,全山焼き払った。
1573 室町幕府滅亡
以後 並の将軍 室町滅亡 1573年
織田信長は,流浪中の将軍義昭を擁して天下の覇者となったが 打倒 信長を
謀る義昭を京都から追放した。1587年 義昭は,豊臣秀吉に拾われ一万石を
給う。
1575 長篠の戦い
以後 名後世に残る 長篠の合戦 1575年
織田・徳川連合軍は, 三千挺の鉄砲で武田勝頼の騎馬隊を殲滅した。
1576 安土築城
以後 成ろう近代 安土築城 1576年
信長は,近江に最初の近代的な城郭を築いた。
1577 安土城下に楽市令
以後 な!何と楽な 楽市令 1577年
信長,安土城下に楽市令を出し,市の閉鎖性や,特権的な販売座席である市座
を廃し,商品取引の拡大円滑化を図った。
1580 顕如 石山本願寺退去
以後 晴れる石山 本願寺退去 1580年
1570年,信長は淀川の河口という要地に有る石山本願寺に立ち退きを求めた。
11年に及ぶ石山戦争の末,顕如は講和し退去した。
1582 天正遣欧使節
以後 恥となる 天正遣欧使節 1582年
九州の大村・大友・有馬の3大名がローマ法王に送った少年使節。伊東マン
ショ・千々石(ちぢわ)ミゲルの2人が正使,原マルチノ・中浦ジュリアンが
副使。 90年に帰国。ミゲルは棄教,マルチノはマカオに追放,ジュリアンは
長崎で殉教した。
1582 天目山の戦い
以後 恥で終わる 天目山の戦い 1582年
長篠の戦いで大敗した武田勝頼は,天目山の戦いでも敗れ自刃(じじん)した。
武田家の滅亡となった。
-210
1582 本能寺の変
以後 恥を濯ぐと 本能寺の変 1582年
明智光秀は,毛利戦の支援軍で京都本能寺を急襲し,信長を倒す。
1582 山崎の戦い
以後 恥に終わる 山崎の戦い 1582年
明智光秀は,本能寺で信長を倒すも11日後,山崎の戦いで備中から取って返し
た秀吉に敗れ,逃亡中に百姓の落ち武者狩りで頓死。
1582 太閤検地
以後 やにわに始まる 太閤検地 1582年
秀吉は,山城国から太閤検地を始め,天下統一の翌年, 1591年全国の大名に,
その領国の検地帳と国絵図の提出を命じた。
1583 賎ケ岳(しずがたけ)の戦い
以後 闇は晴れる 賎ケ岳の戦い 1583年
近江の賎ケ岳で秀吉が,柴田勝家を破った戦い。秀吉は実質的に信長の後継
者の地位を固めた。
1583 大阪築城
以後 闇に浮かぶ 大阪築城 1583年
石山本願寺の旧地に,秀吉が築城した。
1584 小牧・長久手の戦い
以後 端で終わらぬと 小牧・長久手の戦い 1584年
徳川家康が,信長の2男信雄を助け,秀吉と対抗,尾張の小牧・長久手に戦う。
互いにその実力を認め,講和した。
1584 イスパニア船平戸来航
以後 端の平戸に スペイン来航 1584年
スペイン[イスパニア]船が平戸に来航し,貿易を行ったが, 1596年のサン=
フェリペ号事件で関係が悪化した。
1585 秀吉関白
以後 箱入り 秀吉関白 1585年
羽柴秀吉は,関白に就任した。その後,関白を養子秀次に譲り,自ら好んで
関白を辞した人の呼称,太閤を称した。翌年の 1586年後陽成天皇から公家
の最高位である太政大臣に任命され「豊臣」姓を賜った。
1585 四国平定
以後 箱庭に 四国平定 1585年
秀吉は,四国の大半を支配する長宗我部元親(もとちか)を降伏させ,元親には
土佐1国を与えて四国を平定した。
1587 九州平定
以後 離れ小島 九州平定 1587年
島津義久に圧迫された,大友・伊東氏らの要請に応じて秀吉が大軍を派遣。
義久を降伏させ九州を平定した。
-220
1587 バテレン追放令
以後 離れよと バテレン追放令 1587年
秀吉が,九州平定後に博多で発令。キリシタンを邪法とし,宣教師[バテレン]
の20日以内の国外退去を命じた。
1587 北野大茶会(きたののおおちゃのえ)
以後 話し継がれる 北野大茶会 1587年
秀吉が京都北野神社で行った茶会。身分貧富の差なく自由に参集を求めた。
1588 刀狩令(かたながりれい)
以後 刃は持つなと 刀狩令 1588年
秀吉は,土一揆の完全制圧へ向け刀狩令を発令した。これは兵農分離策で
ある。
1590 天下統一,関東平定
以後 苦を無くすと 天下統一 1590年
小田原攻めで北条氏を打倒し,その時の石垣山の本陣で,伊達政宗も恭順した
ので 天下統一となった。
1591 人掃令(ひとばらいれい)
以後 杭打つ 人掃令 1591年
秀吉の発令に続き, 1592年,秀次は全国の戸口調査を命じ,他国他郷の者の
在住を禁じた。
1592 文禄の役
以後 苦に成る 文禄の役 1592年
豊臣秀吉は,肥前の名護屋城から朝鮮に大軍を送ったが,李舜臣(りしゅんし
ん)の水軍等に押され撤兵した。
1592 朱印船の制度
以後 国の貿易 朱印船 1592年
幕府から渡航許可の朱印状を受けた公認の貿易船。秀吉に始まり家光に終わ
る。最重要輸入品は中国産生糸,最重要輸出品は銀。
1596 サン=フェリペ号事件
以後 苦労知る サン=フェリペ号 1596年
土佐浦戸沖にスペイン船サン=フェリペ号が漂着。この際,26聖人殉教が起き
た。
1597 慶長の役
以後 苦難の 慶長の役 1597年
文禄の役の講話条件を明は無視,再度朝鮮に兵を送ったが,秀吉の死で撤兵
した。
1598 秀吉没,朝鮮から撤兵
以後 苦は終わる 朝鮮撤兵 1598年
日本軍苦戦のうち秀吉の死を迎え,その遺命により撤退した。
-230
1600 リーフデ号
一路 大海原より リーフデ号 1600年
豊後臼杵(うすき)に漂着したオランダ船。水先案内人のウィリアム=アダム
ス[三浦按針(あんじん)]や,航海士のヤン=ヨーステンは家康に用いられた。
1600 関ヶ原の戦い
一路 雄々しく 関ヶ原の戦い 1600年
石田三成率いる西軍は,小早川の裏切りで徳川家康軍に敗れる。23万人
8時間の死闘。
1603 家康征夷大将軍
一路 おっさん家康 征夷大将軍 1603年
徳川家康は,征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開く。 1605年,将軍職を子
の秀忠に譲り,駿府に隠居したが大御所と呼ばれ,実権を振るった。
1604 糸割符制始まる
一路 押しなべる 糸割符制 1604年
輸入生糸を一括購入して,仲間全員に分配する特権を持つ商人仲間。
1607 朝鮮使節江戸へ
一路 お仲間と 朝鮮使節 1607年
1605年に講和が成立し, 1607年に来日。以後,将軍の代替わりに来日した。
4回目からは,通信使と呼ばれた。
1609 琉球征服
一路 御国にと 琉球征服 1609年
薩摩藩の島津家久が,兵を派遣し,首里城を落として国王尚寧(しょうねい)を
捕らえ服属させた。以後,与論島以北は薩摩藩領となる。
1609 慶長条約
一路 御国からと 慶長条約 1609年
対馬の宗氏が朝鮮と結んだ条約で,己酉(きゆう)約条とも言う。日本からの
使は将軍と宗氏に限られ,対馬からの歳遣船は年20隻と定めた。
1609 オランダ平戸商館
一路 御国から オランダ平戸商館 1609年
オランダ東インド会社のバタビアを本店とする日本支店が平戸に建設された。
ヤン=ヨーステンが開設に尽力した。
1612 天領禁教令
一路 意地で 天領禁教令 1612年
秀忠は,幕府領及び直属家臣にキリシタン信仰を禁じた。
1613 慶長遣欧使節
一路 一味不幸の 遣欧使節 1613年
伊達政宗が,支倉常長(はせくらつねなが)を正使としてヨーロッパに派遣。
ローマ法王に謁見,通商を求めたが失敗, 1620年に帰国。幽閉された。
-240
1613 全国禁教令
一路 一味退治と 全国禁教令 1613年
天領禁教令を,翌年には全国に広げた。
1613 イギリス平戸商館
一路 一味巣食う イギリス平戸商館 1613年
1600年の東インド会社設立でアジアにも積極的に進出する。ウィリアム=
アダムス[三浦按針]が開設に尽力した。 1623年のアンボイナ事件でオラ
ンダとの抗争に敗れ,対日貿易から撤退した。
1614 大阪冬の陣
一路 石砕く 大阪冬の陣 1614年
京都方広寺の鐘名「国家安康」から起こった,冬の陣の和睦で内堀までも
埋めた。
1615 大阪夏の陣
一路 以後滅ぶ豊臣 大坂夏の陣 1615年
淀君と秀頼の母子が自殺して終わる。
1615 武家諸法度
一路 以後守れと 武家諸法度 1615年
豊臣氏滅亡後,家康は諸大名を伏見城に集め,金地院崇伝(こんちいんすうでん)
に武家諸法度を起草させ,秀忠名で発布させた。
1615 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)
一路 以後守れの 公家諸法度
朝廷・公家の統制令。崇伝が起草した。
1616 長崎・平戸に限定
一路 一路に 長崎・平戸限定 1616年
ヨーロッパ船の寄港地を長崎・平戸に限定した。九州の諸大名の港への寄港
を禁止した。
1622 元和(げんな)の大殉教
一路 爺も殺す 元和の大殉教 1622年
長崎で 55人の宣教師や信者が火あぶりにされた。
1624 イスパニア船来航禁止
一路 西に行けと イスパニア船禁止 1624年
1624年,寛永元年イスパニア船の来航を禁止した。
1629 紫衣(しえ)事件
一路 憎い沢庵 紫衣事件 1629年
後水尾天皇は,禁中並公家諸法度を破って,沢庵らに紫衣を与えた。幕府は
法令違反だと,これを取り上げた。抗議した沢庵は流刑となり,天皇は譲位
した。
-250
1629 踏絵を実施
一路 憎しみの 踏絵 1629年
キリシタン検索の為の聖画像で,のちに真鍮製のキリスト・マリア像となる。
長崎奉行が管理し,九州北部中心に実施された。
1631 奉書船制度
一路 見出せ 奉書船制度 1631年
海外渡航船は,朱印状の他に老中発行の奉書の所持を命じられた。
1633 鎖国令I[寛永十年令]
一路 散々検討した 鎖国令I 1633年
最初の鎖国令で,奉書船以外の海外渡航と海外居住5年以上の者の帰国を禁
止した。
1634 鎖国令II[寛永十一年令]
一路 見よう見真似で 鎖国令II 1634年
寛永十年令と同じ内容。
1635 鎖国令III[寛永十二年令]
一路 見殺し 鎖国令III 1535年
日本人の海外渡航と外国居住者の帰国を全面的に禁止した。この為,朱印船
貿易は途絶することとなった。
1635 参勤交代の制度
一路 見事な行列 参勤交代 1635年
大名は江戸と国元1年交代を原則とし,妻子は江戸住みを強制される。華美
な大名行列や,江戸の藩邸の経費は大名の財政窮乏の原因となるが,江戸や
宿駅の繁栄をもたらした。
1636 鎖国令IV[寛永十三年令]
一路 見ろバテレンと 鎖国令IV 1636年
通商に関係の無いポルトガル人の子孫を追放。バテレン訴人の褒賞金額も
引き上げられた。
1637 島原の乱(〜38)
一路 皆神の元へ 島原の乱 1637年
松倉重政の悪政に,3万の農民が天草四郎時貞を救世主として蜂起。4ヵ月
の激戦で壊滅。
1639 鎖国令V[寛永十六年令]
一路 三行半(みくだりはん) 鎖国令V 1639年
ポルトガル船の来航を全面的に禁止した。最後の鎖国令。
1641 オランダ商館を出島へ
一路 良いのは オランダ出島 1641年
平戸のオランダ人を出島に移した。鎖国の完成である。
-260
1643 田畑永代売買禁止令
一路 予算狂わすな 売買禁止令 1643年
豊農への土地集中と本百姓の没落を防ぐ為にとられた。
1649 慶安の御触書
一路 良く守れと 慶安の御触書 1649年
幕府が農民に与えた心得32条の触書。法令遵守・耕作奨励・衣食住の制限
など生活の細部まで触れている。
1651 由井正雪の乱
一路 語彙豊かな 由井正雪の乱 1651年
兵学者由井正雪(ゆいしょうせつ)が,牢人丸橋忠弥(まるばしちゅうや)らと
企てた幕府転覆未遂事件。乱後,牢人の発生を防ぐ方向へ向かう。
1657 明暦の大火
一路 こんな振袖で 明暦の大火 1657年
振袖火事とも言う。江戸城も類焼し,全市の 55%が焼け,死者 10万人を越え
る。大火後,広小路の設置など市街が整備された。
1669 シャクシャインの乱
一路 むくむくと シャクシャイン 1669年
染退(しぶちゃり)の総首長シャクシャインが,全道のアイヌを糾合して松前
藩に反抗したが,鎮圧された。
1673 分地制限令
一路 並になるなと 分地制限令 1673年
耕地の分割相続の制限令。農民の零細化防止の政策。
1687 生類憐みの令
一路 放し飼いへ 生類憐みの令 1687年
将軍綱吉は,世継ぎを失った悲しみから殺生禁止令を出し,綱吉が戌年であっ
た為 とくに犬の愛護を命じた。数万匹の野犬に給餌し人間を無視した暴政
だった。
1688 柳沢吉保側用人
一路 やや出世の 柳沢側用人 1688年
綱吉の小姓から側用人となり,甲府15万石を領し大老格となる。綱吉の意を
受けて文治政治を推進した。
1702 赤穂事件
いいなと 鬼の顔して 赤穂事件 1702年
前年,江戸城松の廊下での刃傷事件で切腹させられた,播州赤穂藩主浅野内匠
頭(たくみのかみ)の家臣47人が,殿の無念を晴らさんと 吉良上野介(こうずけ
のすけ)の屋敷に討ち入った。
1709 正徳の治(しょうとくのち)
いいなと お国訛りの 正徳の治 1709年
新井白石は,牢人の子で木下順庵に朱子学を学び,甲府時代の家宣(いえのぶ)
の侍講となる。家宣の将軍就任で,幕内に入り正徳の治を行う。
-270
1714 正徳金銀
いいなと 石に負けぬ 正徳金銀 1714年
白石の建議で 1714年に改鋳・発行された金銀。質量とも慶長金銀に復す。
1715 海舶互市新例
いいなと 以後減らせと 海舶互市 1715年
長崎貿易の制限令。金銀流出を防止し,銅の支払額も抑えた。
1716 亨保改革
いいなと 色々禁止の 亨保の改革 1716年
将軍徳川吉宗は,質素倹約を重んじ,享保の改革を断行。30年の改革で幕府
財政を再建した。
1719 相対済し令
いいなと 異口同音に 相対済し令 1719年
旗本・御家人と札差(ふださし)との間の金銭貸借についての争いの訴訟を
認めず,当事者間で和談させた法令。訴訟激増への対応策であった。
1720 漢訳洋書輸入緩和
いいなと 荷をほどく 漢訳洋書 1720年
検閲を緩めて,キリスト教関係以外の漢訳洋書については輸入の制限を緩和
した。
1721 目安箱設置
いいなと 不意に開ける 目安箱 1721年
吉宗は,評定所に目安箱を設け民意を聞いた。その結果,貧民の救済施設の
小石川養生所がつくられた。
1722 上げ米の制
いいなと 爺取り上げる 上げ米の制 1722年
財政窮迫の為,大名から1万石につき100石の割で米を上納させた法令。代償
として大名の在府を半年とした。
1723 足高の制
いいなと にさん我慢の 足高の制 1723年
役職の標準役高を定め,それ以下の者が就任する時,在職中だけ不足の役料を
支給する制度。
1732 亨保の大飢饉
いいなと 身にこたえる 亨保の大飢饉 1732年
1732年の長雨とうんかの害による飢饉。西国一帯にわたり,飢餓民200万人。
亨保・天明・天保の飢饉を三大飢饉という。
1742 公事方御定書(くじかたおさだめがき)
いいなと 世に知らしめる 公事方御定書 1742年
幕府の成文法。大岡忠相(ただすけ)らが編纂し,1742年に完成した。
-280
1758 宝暦事件
いいなと こやつ許せぬ 宝暦事件 1758年
神道家の,竹内式部(たけのうちしきぶ)が公家衆に神書・儒書を講じ,武技を
教えたという理由で重追放となった。
1767 田沼意次側用人
いいなと 無難な出世 田沼側用人 1767年
足軽の身から出世して, 1758年には大名に, 1767年には側用人, 1772年には
老中となった。
1767 明和事件
いいなと 無難に終わる 明和事件 1767年
宝暦事件で逃れた藤井右門(うもん)が,山形大弐(だいに)と甲府・江戸城攻
撃の軍略を述べ,両人は死刑,竹内式部も流刑された。
1772 田沼意老中
いいなと 何をしでかす 田沼老中 1772年
田沼意次が,老中になり町人資本の活用を計り,貨幣改鋳・印旛沼干拓・蝦夷
地開拓など斬新な政策を採ったが,折からの天災地変で挫折した。
1774 解体新書敢行
いいなと なし崩しに刊行 解体新書 1774年
吉宗が, 1720年漢訳洋書の禁を緩め,オランダ語を奨励したので洋学は,蘭学
として発展。そんな中,前野良沢(りょうたく)・杉田玄白(げんぱく)は 解剖
書を訳述した。
1778 ロシア船厚岸(あっけし)来航
いいなと 名はロシアの 厚岸来航 1778年
北海道の厚岸にロシア船が現れて,松前藩に通商を要求するも拒否される。
1782 天明の大飢饉
いいなと やになる 天明の大飢饉 1782年
年貢の増徴により,百姓は疲弊し飢饉が起こる。更に,1783年 浅間山大噴火
の影響で東北地方は厳しい冷害に見舞われ,飢饉は 1787年まで続いた。
1787 寛政の改革
いいなと やな予感の 寛政の改革 1787年
老中松平定信は,朱子学の立場で田沼政治を批判し,厳しい緊縮政策を取り
反感を買う。
1789 棄捐令(きえんれい)
いいなと 白紙に戻せと 棄捐令 1789年
旗本・御家人救済の為,札差の借金を破棄させた法令。
1789 囲米(かこいまい)
いいなと 役に立てよと 囲米 1789年
備荒貯蓄・米価調節の為に,籾(もみ)米を貯蔵させた。諸藩に1万石につき
50石の割合で命じた。
-290
1790 人足寄場
いいなと 苦を無くすと 人足寄場 1790年
江戸隅田川の石川島に設けた。無宿者で入墨・敲(たたき)などの軽罪者を
収容し,職業技術を授け,教化を行った。
1790 寛政異学の禁
いいなと 苦を教える 寛政異学の禁 1790年
定信が柴野栗山(りつざん)の建言を入れ,儒学のうち朱子学を正学とし,それ
以外の学派を異学として聖堂学問所で教授することを禁じた。朱子学の官学
化と教学統制を図る。
1791 七分金積立[七分積金]
いいなと 杭打ちに 七分金積立 1791年
江戸の町入用(町費)の節減による積立制度。節減額の7割を江戸町会所に
積み立て,低利融資で増殖を計り,利子は貧民救済に当てた。
1792 林子平処罰
いいなと 国を惑わすと 林子平処罰 1792年
林子平は経世思想家。「海国兵談」などの著作が人心を惑わしたとして
1792年,禁固刑になった。
1792 ラックスマン根室来航
いいなと 国開けと ラックスマン来航 1792年
女帝エカチェリーナ2世の命により,通商要求を目的に大黒屋光太夫(こうだ
ゆう)らと根室に来航。
1798 近藤重蔵千島探検
いいなと 苦は如何ばかり 千島探検 1798年
幕臣。東蝦夷を探索,国後(くなしり)島・択捉(えとろふ)島に達する。
1799 東蝦夷地直轄
いいなと 救急だと 東蝦夷地直轄 1799年
ロシアの接近に伴い,幕府は松前藩から東蝦夷地を取り上げ,松前奉行の支配
下に置いて直轄した。
1800 伊能忠敬蝦夷地測量開始
嫌だ 大仕事の 伊能忠敬 1800年
伊能忠敬(いのうただたか)は幕命で 1800〜16年,全国の沿岸を測量し,「大日
本沿海輿地全図(よちぜんず)」の作成に当たる。
1804 レザノフ長崎来航
嫌だ 押しかけ レザノフ来航 1804年
アレクサンダー1世の遣日使節として長崎に来航。通商を要求したが容れら
れず,翌年退去した。
1806 文化の撫恤令(ぶじゅつれい)[薪水(しんすい)給与令]
嫌だ 降ろすなと 撫恤令 1806年
外国船はなるべく穏便に帰帆させ,漂流船には薪水を給与することを定めた
法令。
-300