「日本史重要年代500」 高速右脳暗記 Part I





 57 倭の奴国王遣使  こんな 金印出ました 57年    1784年 筑前志賀島で,百姓甚兵衛が後漢光武帝よりの金印を発見した。    漢の委(わ)の奴(な)の国王と読める。「後漢書」東夷伝に記述が有る。  107 帥升ら遣使  入れない国へ 帥升ら遣使 107年    倭国王帥升(すいしょう)が,生口(せいこう)160人を献じ,請見を願うと    「後漢書」東夷伝に記述が有る。  239 卑弥呼の遣使  文来る 卑弥呼 239年    女王卑弥呼(ひみこ),魏に朝貢して親魏倭王の称号と銅鏡を受ける。約30    の諸国は卑弥呼を立てて,邪馬台国中心の連合体を作る。    「魏志」倭人伝に記述が有る。  391 好太王碑文  作為はないぞ 好太王碑文 391年    高句麗の好太王(広開土王)碑文が建てられた。391年大和政権が百済と結び    朝鮮に侵入と有る。      478 武の上表  品は無いか 武の上表 478年    雄略天皇と推定される倭王武が宋に遣使し,上表する。「宋書」倭国伝に    記述が有る。  512 百済に伽羅(から)4県割譲  故意に譲る 任那4県 512年    大伴金村(おおとものかねむら)は,高句麗,新羅に圧迫されて居た百済に任那    4県を割譲した。物部尾輿(もののべのおこし)の弾劾で失脚した。  527 筑紫国造磐井(くにのみやつこいわい)の乱  孤児泣く 磐井の乱 527年    筑紫の国造磐井が,新羅に内通し百済救援軍を妨害。 528年物部氏や大伴氏の    軍に討たれる。  538 仏教公伝  御参拝する 仏教公伝 538年    百済の聖明王が,教典・仏像を伝え,蘇我氏や渡来系の氏が支持した。  562年 任那滅亡  後、無に帰る 任那 562年    加羅(から)諸国[任那(みまな)]は,新羅により滅亡させられる。    「日本書紀」に記述が有る。  587 蘇我氏,物部氏を倒す  子は泣く 守屋滅亡 587年    大臣(おおおみ)の蘇我馬子が,大連(おおむらじ)の物部守屋(もりや)を倒す。    さらに, 592年 東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に,崇峻(すしゅん)天皇    を暗殺させた。 -10  593 聖徳太子摂政  国民摂政 聖徳太子 593年    女帝推古となり,聖徳太子は摂政として叔母の推古天皇を助けた。  603 冠位十二階  群れ 見て上がれ 十二階 603年    聖徳太子の官吏登用法で,徳・仁・礼・信・義・智の徳目を大小に分けて十二    階とした。  604 憲法十七条  群れ 良く読め 十七条 604年    太子の作った官吏服務規律で,天皇中心の中央集権化を目指した。  607 遣隋使:小野妹子  群れなして見送る 遣隋使 607年    聖徳太子は,小野妹子(おののいもこ)を遣隋使として派遣した。    翌年,答礼使裴世清(はいせいせい)を連れて帰国した。      630 第一次遣唐使:犬上御田鍬  無産を恥じて 遣唐使 630年    朝廷は,犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を最初の遣唐使として派遣した。      643 山背大兄王殺害  無視され殺害 山背大兄 643年    蘇我入鹿(いるか)は,斑鳩の宮(いかるがのみや)を攻撃し,聖徳太子の子    山背大兄王(やましろのおおえのおう)を自殺させた。  645 大化の改新  虫殺して 大化の改新 645年    中大兄皇子(なかのおおえのおおじ),中臣鎌足(なかとみのかまたり)等は    蘇我入鹿と,その父蝦夷(えみし)を倒して改革を行なった。  646 改新の詔  蒸し蒸しするも 改新の詔 646年    孝徳天皇が難波宮で宣布した詔(みことのり)。唐制に基づく改新の基本政策    を明示した。  647 渟足柵  虫無くすと 渟足柵 647年    蝦夷(えみし)に対する最前線基地として,新潟県沼垂(ぬったり)町に渟足柵    (ぬたりのさく)を設けた。  648 磐舟柵  虫やっつけると 磐舟柵 648年    翌年,新潟県村上市に,磐舟柵(いわふねのさく)を設けた。 -20  658〜 阿倍比羅夫の東北遠征  酷(むご)や 比羅夫遠征 658年    大船団を組織し,秋田,能代,津軽方面の蝦夷を討った。  661 斉明没 天智称制  ろくろく言わず 天智称制 661年    斉明天皇が没して,天智天皇が即位式を挙げずに称制した。    近江遷都後の, 668年に即位した。  663 白村江の戦  無論惨敗 白村江 663年    660年百済が滅亡し,再興の為の援軍の水軍が唐,新羅の連合軍に惨敗した。  667 近江大津宮遷都  無論なし崩しで 近江遷都 667年    中大兄皇子[天智称制]が,大津市の北郊に遷都した。壬申の乱後は荒廃した。  668 近江令  無論やらずの 近江令 668年    中臣鎌足が編集した令で,律は伴わない。完成,施行が否定的である。  670 庚午年籍  無難置かずに 庚午年籍(こうごねんじゃく) 670年    庚午(かのえうま)の年,天智天皇の下で作成された,最初の全国戸籍。  672 壬申の乱  無難に勝利 壬申の乱 672年    大友皇子を 皇弟 大海人皇子(おおあまのおおじ)が倒し,翌年の 673年    飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し,天武天皇となった。  684 八色の姓  労や知るや 八色(やくさ)の姓(かばね) 684年    天武天皇が制定した,8階の姓。  689 飛鳥浄御原令施行  労や苦難の 飛鳥浄御原令 689年    天武天皇が編集を命じ,689年持統天皇の時に施行された令(りょう)。  690 庚寅年籍  労苦を知るや 庚寅年籍(こういんねんじゃく) 690年    689年から 690年庚寅(こういん)にかけて,持統天皇が飛鳥浄御原令に基づ    いて作らせた戸籍。農民支配の根本台帳で以後,班田を確実に実施。 -30  694 藤原京遷都  向くよ長安 藤原京 694年    持統天皇は,長安に倣った整然とした都城を建設した。  701 大宝律令  名を1番に 大宝律令 701年    藤原不比等(ふじわらのふひと)や刑部親王(おさかべしんのう)等は,唐の    律令に倣い,大宝元年初の律令を制定し翌年施行した。  708 和同開珎  名を初めて付ける 和同開珎 708年    武蔵国から銅が献上され,和銅と改元し最初の皇朝十二銭である和同開珎が    鋳造される。  710 平城京遷都  名入れ祝う 平城京 710年    元明天皇は都を奈良に移し,唐の長安に倣った壮大な平城京を営んだ。  711 蓄銭叙位令  無い位階も蓄銭しだい 711年    銭貨の流通を図るため,蓄銭量に応じて位階を授けることを定めた。  712 古事記  無いに編纂の 古事記 712年    稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦み習った「帝記」「旧辞」を太安万侶(おおの    やすまろ)が筆録した。 神代から推古天皇までの3巻に。  713 風土記撰進の命  無い身 寂しく 風土記作る 713年    政府は諸国に各地の地理,産物,伝説などを書き出すことを命じた。諸国は    風土記を作って献上した。  718 養老律令  無いやでは困り 養老律令 718年    藤原不比等が元正天皇の命で,養老律令を編纂した。  720 日本書紀  何を倣ったか 日本書紀 720年    舎人親王(とねりしんのう)等は,中国の史書に倣い,漢文の編年体の史書    30巻を撰上した。  722 良田百万町歩開墾計画  何に血迷ったか 百万町歩 722年    人口増加による口分田不足を補うため,良田百万町歩を開墾する計画が立て    られた -40  723 三世一身の法  何!3世まで私有 三世一身 723年    722年 百万町歩開墾計画が頓挫し,新しく開墾した者に子,孫,曾孫の間私有    を許す法が制定された。  727 渤海来朝  何々と 渤海来朝 727年    919年までの間に34回来日し,毛皮,薬用人参をもたらした。  729 長屋王の変  何!苦しみ死んだ 長屋王 729年    長屋王(ながやおう)に謀反の意図があると,藤原武智麻呂(むちまろ)に邸を    囲まれ自殺した。  737 藤原四子ら没 天然痘  並々で無い 天然痘 737年    不比等の四子が4つの家を興していたが,「遣新羅使」が持ち帰った天然痘    で,全滅した。南家(なんけ)・武智麻呂,北家・房前(ふささき),式家・宇合    (うまかい),京家・麻呂。以後,橘諸兄(たちばなのもろえ)の政権となり,    玄ム(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)が重用される。  740 藤原広嗣の乱  名知れと 広嗣の乱 740年    宇合の子,広嗣(ひろつぐ)は,大宰府(だざいふ)に左遷されていたが,玄ムと    吉備真備の排除を求めて挙兵するも敗退,処刑された。  740 恭仁京遷都  名知れる 恭仁京遷都 740年    広嗣の乱で聖武天皇は,山背の恭仁(くに),摂津の難波(なにわ),近江(おうみ)    の紫香楽(しがらき)と次々に遷都して,745年に平城京に戻った。  741 国分寺・国分尼寺建立の詔  無し1寺の国分寺 741年    全国に国分寺・国分尼寺を設け,東大寺を総国分寺,法華寺を総国分尼寺と    した。  743 墾田永年私財法  無し3世の 永年私財 743年    三世私有も収公が近づくと土地が荒れ,開墾奨励の為永年の私有を許した。    公地制が崩れ,荘園の発達招く。  743 大仏造立の詔  無し散財の 大仏造立 743年    744年,紫香楽で造立を始めたが,人心服さず。平城京に戻り,造立も奈良の    東大寺に移し,747年に着工した。  752 大仏開眼供養  名子に伝えよ 大仏開眼 752年    聖武天皇は 743年盧舎那仏造立の詔を発し,東大寺本尊として鋳造され    孝謙天皇の 752年に開眼供養した。 -50  754 鑑真来日  名こよなし 鑑真来日 754年    唐僧の鑑真が聖武天皇に招かれ,幾多の苦難の後に来日し,755年に東大寺に    戒壇を設け, 759年唐招提寺を開いた。  757 橘奈良麻呂の乱  名こなすと 橘奈良麻呂の乱 757年    諸兄の子橘奈良麻呂が,藤原仲麻呂の擁立する淳仁天皇(じゅんにんてん    のう)の廃太子を計画したが,事前に漏れて失敗,斬られた。     757 養老律令施行  名こなせと 養老律令 757年    718年 養老2年に成立したが,大宝律令と大差無く,藤原仲麻呂によって    757年に施行された。  764 恵美押勝の乱  名無視され 恵美押勝の乱 764年    淳仁天皇から,恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜った藤原仲麻呂は    孝謙上皇の寵臣,道鏡を除こうとして乱を起こしたが,近江で敗死した。  766 道鏡法王  名ロクロク知らぬ 道鏡法王 766年    孝謙上皇の病を癒し信任を得て, 765年に太政大臣禅師となり, 766年    法王の称号を得た。法王の地位の内容は不明である。  769 宇佐八幡宮神託  名無垢な人へと 宇佐八幡 769年    道鏡の皇位就任を告げた宇佐八幡宮の神託確認の為,和気清麻呂(わけの    きよまろ)が派遣され,偽託であることが復奏された。  780 伊治砦麻呂の乱  名晴れると 伊治砦麻呂 780年    蝦夷の首長伊治砦麻呂(これはるのあざまろ)が,陸奥按察使(あぜち)    紀広純(きのひろずみ)を殺し,多賀城を焼いた。  784 長岡京遷都  名走らぬ 長岡京遷都 784年    桓武天皇(かんむてんのう)が 784年に遷都したが,翌785年に造長岡京使の    藤原種継(たねつぐ)が暗殺された為,造営が進まず,794年の平安京への遷都    により廃止された。  785 藤原種継暗殺  名刃こぼれ 種継暗殺 785年    784年 造長岡京使となった藤原種継は,785年 現地で監督中に射殺された。    この事件で,早良親王(さわらしんのう)は皇太子を廃され,伴・佐伯の旧豪族    が処刑された。  792 健児制  名国守る 健児の制(こんでいのせい) 792年    辺境以外の軍団を廃止し,郡司の師弟で弓馬に巧みな者を健児とする軍事編成    を取った。 -60  794 平安京遷都  無くして不安を 平安京 794年    桓武天皇は,都を山背国に移し,唐の長安を模範として壮麗な平安京を    営んだ。  797 坂上田村麻呂征夷大将軍  泣く泣く降伏 田村麻呂 797年    791年より従軍し蝦夷の族長を降伏させた。797年征夷大将軍となって,胆沢城    (いざわじょう),志波城(しわじょう)を築き,蝦夷経営の拠点とした。  802 胆沢城  晴れに築城 胆沢城 802年    坂上田村麻呂が,岩手県水沢市に胆沢城を築き,鎮守府を多賀城から移し,    翌年北方に志波城を築いて前衛とした。     805 最澄が天台宗を伝える  やれこっちに 最澄天台宗 805年    最澄(さいちょう)伝教大師(でんぎょうだいし)は,桓武天皇の支持を受け    比叡山に延暦寺を建て,天台宗を広めた。  806 空海が真言宗を伝える  やれ向かいに 空海真言宗 806年    空海弘法大師(こうぼうだいし)は,嵯峨天皇の支持を受け,高野山に金剛峰寺    (こんごうぶじ)を建て,京都の東寺(とうじ)の長者となり真言宗を広めた。  810 薬子の変  やい俺の方でと 薬子の変 810年    平城上皇(へいぜいじょうこう)の重祚(ちょうそ)を謀り,藤原仲成(なかなり)    と妹の薬子(くすこ)が乱を起こしたが失敗した。  810 藤原冬嗣蔵人頭  やい俺がと 冬嗣蔵人頭 810年    藤原式家の 薬子の変が起き,嵯峨天皇は藤原北家の冬嗣(ふゆつぐ)を    蔵人頭(くろうどのとう)に任じ勝利した。以後,検非違使(けびいし)も    置かれたがこれらは令外官(りょうげのかん)と呼ばれた。  816 検非違使  やいむさぐる 検非違使 816年    嵯峨天皇が設置し,京中の治安警備に当たらせた。  842 承和の変  端に置かぬ 承和(じょうわ)の変 842年    藤原良房(よしふさ)は,甥の道康親王(みちやすしんのう)を皇太子にしようと    伴健岑(とものこわみね),橘逸勢(たちばなのはやなり)を排斥した。  857 藤原良房太政大臣  野合成して 良房太政大臣 857年    850年 道康親王が即位し,文徳天皇(もんとくてんのう)となり, 857年良房は    太政大臣になる。 -70  858 清和即位 良房摂政の実  野合やらず 良房摂政の実 858年    文徳天皇の若死にで,娘明子(めいし)の子が,清和幼帝となり,良房は事実上    の摂政となる。  866 応天門の変  野郎ろくに調べぬ 応天門の変 866年    大納言伴善男(とものよしお)が,左大臣源信(みなもとのまこと)の失脚を    ねらって応天門に放火,発覚して伊豆に配流された。  866 良房摂政  野郎ろくに調べて 良房摂政 866年    事件の処理に当たった良房は,伴善男・紀豊城(きのとよき)ら古来の名門    有力者の排斥に成功して,正式に摂政となる。  884 光孝即位 基経事実上の関白  やや良くないが 基経関白 884年    良房の養子の基経(もとつね)は,光孝天皇を即位させ,特に許されて事実上の    関白となった。  887 宇多即位 基経関白  ややなし崩しの 基経関白 887年    光孝天皇の皇子 宇多天皇(うだてんのう)が即位し,基経に関白の詔が出た。    それには 基経を「阿衡(あこう)の任」に付けるとあった。起草者は橘広相    (たちばなのひろみ)である。  888 阿衡の紛議  やややっかいな 阿衡の紛議 888年    基経は「阿衡は名のみ」と出仕を止めて起草者を咎めた。宇多天皇は勅書の    非を認め,橘広相を罰した。基経は政治的立場を強化した。  894 遣唐使の廃止  役止すと 遣唐使廃止 894年    遣唐使に任命された菅原道真(すがわらのみちざね)は,唐の乱れから遣唐使    の廃止を建議し認められた。  901 昌泰の変  暮れ急ぐ 道真左遷 901年    右大臣 菅原道真は左大 藤原時平(ときひら)の讒言により大宰権帥(だざい    のごんのそつ)に左遷された。昌泰(しょうたい)の変と呼ばれる。  902 延喜の荘園整理令  暮れに 延喜の荘園整理令 902年    藤原時平の主導で律令制維持の為,正式許可の無い荘園を処断した。  905 古今和歌集編纂  暮れ越したが 古今和歌集 905年    紀貫之(きのつらゆき),紀友則(きのとものり),凡河内躬恒(おおしこうちの    みつね),壬生忠岑(みぶのただみね)等が編者になり,1100首余りを収録した    最初の勅撰和歌集。 -80  907 延喜格  暮れなずむ 延喜格 907年    格12巻は,醍醐天皇(だいごてんのう)の命で藤原時平らが,詔勅・官符を集    め 延喜7年に完成した。  914 意見封事十二箇条  悔い止すと 意見封事 914年    三善清行(みよしきよゆき)は,醍醐天皇に意見を提出し,政治改革など12条    の対策を上奏した。   927 延喜式  国なずむ 延喜式 927年    式50巻は,弘仁(こうにん)・貞観(じょうがん)式を併合して完成。現存する。  935 承平(じょうへい)の乱(平将門の乱)  組み込む東国 将門の乱 935年    平将門(たいらのまさかど)は,関東の大半を占領して 新皇を称して独立を    宣言したが 940年,平貞盛(たいらのさだもり)と藤原秀郷(ひでさと)によっ    て鎮圧された。  938 空也が念仏宗を開く  組み易い 空也念仏宗 938年    念仏の功徳を庶民層に布教,市聖(いちのひじり)・阿弥陀聖と呼ばれた。  939 天慶(てんぎょう)の乱(藤原純友の乱)  組みくす西国 純友の乱 939年    藤原純友(すみとも)は,瀬戸内海の海賊の棟梁となり,大宰府を焼き討ちに    した。941年 追捕使小野好古(よしふる),源経基(つねもと)に平定された。  958 乾元大宝(けんげんたいほう)  救護やるか 乾元大宝 958年    村上天皇の 958年に発行。皇朝十二銭の最後。  969 安和(あんな)の変  苦労苦になる 安和の変 969年    左大臣源高明(みなもとのたかあきら)を藤原氏が失脚させた事件。以後,    藤原氏の全盛となる。  985 往生要集(おうじょうようしゅう)  苦はこれだと 往生要集 985年    源信(げんしん)の著で,念仏による極楽往生の方法を示し,浄土信仰を確立    した。  988 尾張国郡司百姓等解文(げぶみ)  苦はやらぬと 百姓等解文 988年    尾張の国司藤原元命(もとなが)の悪政について,郡司(ぐんじ)・百姓らが    31ヵ条に列挙して罷免を嘆願した訴状が出された。翌年 元命は停職された。 -90  1007 源氏物語  異例は同じは無い 源氏物語 1007年    紫式部の大長編小説で,光源氏を中心とする前41帖と,薫大将を主人公とする    後13帖とからなる。  1016 道長摂政  異例は色めく 道長摂政 1016年    後一条天皇が即位し外祖父の道長が摂政となった。以後摂関家への土地の    寄進が激増した。  1017 道長太政大臣 頼通(よりみち)摂政  異例はいななく 道長太政大臣 1017年    道長は,甥の伊周(これちか)と関白を争って勝ち, 995年に内覧となり,氏の    長者として藤原氏の全盛期を現出した。  1019 刀伊(とい)の入冦  異例は行くぞと 刀伊の入冦 1019年    賊船50余隻が,対馬・壱岐・博多湾に侵入,撃退されたが,のちに沿海州の    女真族(刀伊)と判明する。  1028 平忠常の乱  異例はにやけた 平忠常の乱 1028年    上総介(かずさのすけ)・武蔵国押領使の平忠常(ただつね)が反乱を起こし    房総を占領したが,1031年,追討使源頼信(よりのぶ)に降伏。関東の平氏は    衰退した。  1045 寛徳の荘園整理令  異例は寄こせと 寛徳の整理令 1045年    後冷泉天皇の 1045年に発令。対象を前任国司以後の新立荘園にする。以後の    整理令の基準となる。  1051 前九年の役  異例は来いよ陸奥へ 前九年 1051年    陸奥六郡の豪族安部頼時を鎮守府将軍源頼義・義家父子が討伐した。源氏    の勢力が東国に広がる。  1052 末法第一年  異例は子に説く 末法第一年 1052年    仏滅後千年を正法(しょうほう),次の千年を像法(ぞうほう),そのご一万年を    末法(まっぽう)とし,末法の世は仏法の衰える乱世と言われ,1052年が末法の    初年とされ,浄土教の発達を刺激した。  1053 宇治平等院鳳凰堂  異例は誤算の無い 鳳凰堂 1053年    藤原頼通(よりみち)の宇治の別荘を阿弥陀堂にした。  1069 延久の荘園整理令  異例は無垢の 延久の荘園整理令 1069年    1045年以降の新立荘園を廃止した。藤原氏の荘園にも及んだ。 -100