「日本史重要年代500」 高速右脳暗記 Part IV





 1808 間宮林蔵ら樺太探検  嫌だ お役目とは言え 樺太探検 1808年    幕命で樺太を探査し,島であることを確認。さらにシベリアの黒竜江下流地    方も探査した。  1808 フェートン号事件  嫌だ 例は無いぞ フェートン号 1808年    イギリスの軍艦フェートン号が,オランダ船捕獲の為,長崎湾内に侵入,薪水・    食料を強奪して退去した。  1811 ゴローニン事件  嫌だ 言い訳聞かず ゴローニン事件 1811年    ロシア海軍軍人。ディアナ号船長として千島列島を測量中,国後島で松前奉    行の手に捕らえられ,箱館・松前に監禁, 13年に釈放された。  1825 異国船打払令  嫌だ 二国だけと 異国船打払令 1825年    清・蘭船以外は二念なく撃退することを命じた法令。無二念打払令。  1828 シーボルト事件  嫌だ 荷は地図の シーボルト事件 1828年    シーボルト帰国の時,国外持出禁止の日本地図を高橋景保(かげやす)より入    手したことが発覚し,シーボルトは国外追放,景保は投獄された。  1833 天保の大飢饉  嫌だ 散々飢えた 天保の大飢饉 1833年    収穫が例年の半分以下となり,全国的な飢饉となった。百姓一揆・打ち壊し    が続発した。1732年の享保, 1782年の天明と併せて江戸の3大飢饉。  1837 大塩平八郎の乱  嫌だ 皆称える 大塩平八郎の乱 1837年    大阪天満の与力で,陽明学者だった大塩平八郎は庶民を救済する為に幕府転    覆を謀るも露見し鎮圧された。  1837 モリソン号事件  嫌だ 皆打ち払えと モリソン号 1837年    漂流民返還と通商交渉の為に来航した米船モリソン号が,相模の浦賀と薩摩    の山川(やまがわ)で異国船打払令のため撃退された事件。  1838 戊戌(ぼじゅつ)封事  嫌だ 雅(みやび)な意見 戊戌封事 1838年    徳川斉昭(なりあき)が書いた上書。御三家の立場から幕政改革を要求した。  1839 蛮社の獄  嫌だ 見下すなと 蛮社の獄 1839年    洋学者弾圧事件。蛮学社中の渡辺崋山(かざん)・高野長英らが処罰された。 -310  1841 天保の改革  嫌だ 良い方だよの 天保の改革 1841年    老中水野忠邦は,積極的な改革を行ったが上知令(あげちれい)が諸大名の反    対で失敗し失脚した。  1841 株仲間解散令  嫌だ 良いも悪いも 株仲間解散 1841年    江戸市中の物価騰貴を抑制する為,株仲間の解散を命じた法令。しかし,市場    の混乱により物価が騰貴し, 1851年株仲間再興令を出した。  1842 天保の薪水給与令  嫌だ 世に問う 天保の薪水給与令 1842年    アヘン戦争の結果,無二念は危険と判断して,撫恤令に戻ることを発令した。  1843 人返しの法(ひとがえしのほう)  嫌だ 予算守ると 人返しの法 1843年    老中首座の水野忠邦が行った強制的帰農策。江戸に流入した下層民を帰農    させ,農村の再建を図った。    1843 上知令(あげちれい,じょうちれい)  嫌だ 予算再建と 上知令 1843年    幕府の政治的・経済的基盤を再建する為,江戸・大阪周辺の大名・旗本領を    直轄領にしようとした法令。反対により,忠邦は失脚,改革も失敗した。  1844 オランダ国王開国勧告  嫌だ 獅子は止めよと 開国勧告 1844年    オランダ国王ウィレム2世による,将軍家慶(いえよし)への開国の勧告。    幕府は拒絶した。    1846 ビッドル浦賀来航  嫌だ 宜しくと ビッドル来航 1846年    アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが,浦賀に来航し,通商を要求。幕府    は拒絶した。  1853 ペリー来航  嫌だ 誤算だった ペリー来航 1853年    ペリーが浦賀に来航し,開国を求めた。幕府は拒絶するも,翌年の回答を約束    した。  1853 プチャーチン来航  嫌だ 誤算の プチャーチン来航 1853年    ロシア極東艦隊司令長官プチャーチンが,長崎に来航し,条約締結を要求。    1854年に下田に来航,日露和親条約を調印。 1858年江戸で日露修好通商条約    を締結した。  1854 日米和親条約  嫌だ 今宵締結 和親条約 1854年    鎖国政策が終わり,薪水・食糧の供給、下田・箱館の開港等が調印された。 -320  1856 ハリス来航  嫌だ 頃は良しと ハリス来航 1856年    初代アメリカ駐日総領事として下田に着任した。アロー号事件の結果を利用    して幕府を脅迫し, 58年日米修好通商条約の調印に成功した。  1858 井伊直弼(いいなおすけ)大老  嫌だ 強(こわ)持ての 井伊大老 1858年    彦根藩主井伊直弼が大老に就任。同年勅許を得ず通商条約に調印した。  1858 日米修好通商条約  嫌だ ご破算にしたい 通商条約 1858年    日本総領事のハリスの説得に,大老井伊直弼が独断で調印。治外法権や関税    で不平等だった。  1858〜 安政の大獄始まる  嫌だ 子は泣く 安政の大獄 1858年〜    大老井伊直弼は,新将軍家茂(14代)を実現する為,反対派を弾圧した。水戸    斉昭(なりあき)蟄居(ちっきょ),一橋慶喜(よしのぶ)謹慎,安島帯刀(あじま    たてわき)切腹,吉田松蔭,橋本左内刑死という厳しいものだった。  1859 開国貿易開始  嫌だ ごくりとうま味の 開国貿易 1859年    横浜,長崎,箱館の3港で開国貿易が始まる。主なる輸出品は生糸(きいと)。    主なる輸入品は毛織物,綿織物。養蚕地から開港地への直送が起きた為に,    江戸は品不足によるインフレとなり,慌てた幕府は五品江戸廻送令を出した。  1860 遣米使節  嫌だ 群れて渡米 遣米使節 1860年    条約批准書交換の為に,正使新見正興(しんみまさおき)は,米艦ポーハタンで    渡米。随行艦として咸臨丸が初めて太平洋横断に成功した。  1860 桜田門外の変  嫌だ 群れて襲う 桜田門外の変 1860年    3月3日桃の節句で登城する井伊直弼を,水戸脱藩浪士18名が襲撃し暗殺し    た。これ以後,幕権が衰退して行く。  1860 五品江戸廻送令  嫌だ 群れて送れと 五品廻送令 1860年    幕府は,江戸問屋の保護と流通経済統制の為に,重要輸出5品の雑穀,菜種油,    蝋,呉服,生糸の開港場直送を禁じ,江戸問屋を経由することを発令した。  1862 坂下門外の変  嫌だ 無事に終わる 坂下門外の変 1862年    和宮(かずのみや)降嫁に憤激した尊王攘夷派の志士が,江戸城坂下門外に老    中首座の安藤信正を襲い,傷つけた。  1862 寺田屋事件  嫌だ 無事に終わらぬ 寺田屋事件 1862年    上京した島津久光を擁して倒幕挙兵を策する薩摩藩士有馬新七らを,文久の    改革の妨げになるとして,伏見寺田屋において久光の使者が斬殺した。 -330  1862 文久の改革  嫌だ 無事に終えた 文久の改革 1862年    勅命により実施された幕政改革。参勤交代を3年1勤とする在府期間の短縮,    軍制改革などを行う。  1862 生麦事件  嫌だ 無事返さぬと 生麦事件 1862年    横浜の生麦で,薩摩藩主の父島津久光の江戸より下向中の行列を横切った,    イギリス人を無礼討ちにする事件が発生した。イギリスは幕府に損害賠償    を要求した。  1863 薩英戦争  嫌だ 無惨な結果 薩英戦争 1863年    生麦事件の報復に,イギリス艦隊が鹿児島沖に来航して交戦。双方ともかな    りの被害を受け講和が成立した。薩摩は攘夷の無謀を理解した。  1863 八月十八日の政変  嫌だ 無惨に負けた 八月十八日 1863年    薩摩・会津などの公武合体派が,長州藩主体の尊攘派を京都から追放した。  1864 池田屋事件  嫌だ 無視するなの 池田屋事件 1864年    新選組が,京都三条河原町の池田屋に集合した尊攘派を急襲, 20数名を殺傷,    捕縛した。  1864 禁門の変[蛤御門(はまぐりごもん)の変]  嫌だ 無視するなと 禁門の変 1864年    八月十八日の政変で京都を追われた長州藩の急進派が入京し,薩摩・会津・    桑名の藩兵と皇居内外で交戦,敗走した。  1864 第1次長州征討  嫌だ 無視出来ぬと 長州征討 1864年    禁門の変を理由に,長州征討の勅命を受けた幕府が,長州藩を攻めた。  1864 下関戦争  嫌だ 無視出来ない 下関戦争 1864年    長州藩の外国船砲撃事件の報復と関門海峡通行の安全確保の為,英・仏・米・    蘭の四国連合艦隊が下関を砲撃し,下関砲台などを占領した。  1865 第2次長州征討の命  嫌だ 酷い結果の 第2次長州征討 1865年    高杉晋作(しんさく)らが,再び長州藩の実権を握り,倒幕の動きを強めた為,    幕府は長州再征を行ったが,連戦連敗,将軍家茂の病死で停戦した。      1865 条約勅許  嫌だ 無効にするなと 条約勅許 1865年    幕府が勅許を得ないで調印した修好通商条約に対し,英・仏・米・蘭4ヵ国    の圧力により,孝明天皇が正式に勅許した。 -340  1866 薩長同盟  嫌だ ロクロク話さず 薩長同盟 1866年    京都で坂本竜馬の斡旋で,薩摩の西郷隆盛,長州の木戸孝允(たかよし)が会盟,    相互援助を約し,倒幕の主力を形成した。  1867 大政奉還  嫌だ 空しい 大政奉還 1867年    将軍徳川慶喜(よしのぶ)は,大政奉還を申し入れたが,朝廷は既に倒幕の密勅    を出していた。  1867 王政復古の大号令  嫌だ 空しく 王政復古 1867年    薩長の倒幕派が計画し, 1867年12月に発表された政体変革の命令書。  1868 戊辰戦争(ぼしんせんそう)  嫌だ むやみに戦う 戊辰戦争 1868年    1868年の鳥羽・伏見の戦いから,翌年の五稜郭(ごりょうかく)の戦いまでの    新政府と旧幕府勢力間の戦争。  1868 五箇条の御誓文(ごせいもん)  嫌だ むやみな 五箇条の誓文 1868年    1868年3月発布の明治政府の基本方針。明治天皇が神に誓う形で発布。  1868 一世一元の制  嫌だ むやみに変えるな 一世一元の制 1868年    天皇一代の間を時代のまとまりとして,元号も1つにして変えない制度。  1869 版籍奉還  嫌だ むくれながら 版籍奉還 1869年    新政府の中央集権体制確立の為,各藩の土地(版),人民(籍)を天皇に返還させ    る必要があった。木戸・板垣・大隈・大久保らが協議し,薩長土肥の4藩主    連名で版籍を奉還し,残りの藩主も渋々奉還し,家禄を貰う知藩事となった。  1871 戸籍法  嫌だ 無いに作る 戸籍法 1871年    各府藩県ごとに行われていた戸籍作成の規則を全国的に統一した法規が制定    された。  1871 新貨条例  嫌だ 無いに作れと 新貨条例 1871年    統一的貨幣制度を確立するための条例が公布された。  1871 廃藩置県  嫌だ 無いとすると 廃藩置県 1871年    3府302県の府県制を7月に断行した。知藩事を廃止し,東京居住を命じ,中央    から県令を派遣し,旧藩兵は解散。 -350  1871 身分解放令  嫌だ 無いにすると 身分解放令 1871年    穢多(えた)・非人の称を廃し,身分・職業共に平民同様とするという太政官布    告が出た。  1871 文部省  嫌だ 無いに作る 文部省 1871年    教育・学芸関係官庁の文部省を設置した。  1871 日清修好条規  嫌だ 無いから作る 日清修好条規 1871年    日清間で結ばれた最初の条約で,関税率の最低・領事裁判権を相互承認した    初めての対等条約。  1872 学制  嫌だ 何を倣(なら)ったかの 学制 1872年    フランスの学制に倣い,全国を8大学区に分け,その下に中学区,小学区を設置。  1872 鉄道が開通  嫌だ 名に恥じる 鉄道開通 1872年    横浜港から築地の居留地まで物資を運ぶ為,鉄道建設が計画され, 71年イギリ    スから機関車が輸入された。 72年イギリスからの資金や技術で新橋横浜間に    鉄道開通。  1872 富岡製糸場開業  嫌だ 名に恥じぬ 富岡製糸場 1872年    群馬県富岡に製糸の官営模範工場が開設した。  1873 徴兵令  嫌だ 並の男子はと 徴兵令 1873年    徴兵告諭(こくゆ)と全国徴兵の詔に基づき,国民皆兵の方針により,満20歳以    上の男子を兵籍に編入し,兵役に就かせる法令が出された。  1873 地租改正条例  嫌だ 涙の増税 地租改正 1873年    国家財政の安定の為,租税改正4点を明確にした。課税対象は土地所有権者,    課税基準は地価 税率は地価の3%,納入方法は金納。小作制の封建制は温存    された。  1873 明治六年の政変  嫌だ 涙の政変 明治六年 1873年    西郷・板垣らが,朝鮮の鎖国拝外政策を武力で打破する征韓論を主唱。内治    優先論を説く,大久保・木戸らの反対で実現せず。征韓派は一斉に下野した。  1874 民撰議院設立の建白書  嫌だ 無しされた 建白書 1874年    自由民権運動の口火を切った国会開設要求。征韓論争で下野した,板垣らが    藩閥政治に反対し,愛国公党を結成して建白書を左院に提出。政府は時期尚早    と無視した。 -360  1874 佐賀の乱  嫌だ なし崩しの 佐賀の乱 1874年    征韓を主張する征韓党などが,江藤新平らを擁して,約1万2千人が蜂起。    政府軍に鎮圧される。  1874 台湾出兵  嫌だ なし崩す 台湾出兵 1874年    明治政府最初の海外出兵。琉球漁民殺害事件を機に日本軍が出兵した。日清    互換条款(じょうかん)を結び,解決した。  1874 立志社  嫌だ 無しに作る 立志社 1874年    自由民権運動の中心となった政治結社。板垣退助が片岡健吉らとともに高知    で結成。愛国社・国会期成同盟・自由党の中核となった。80年、国会開設請    願運動の中心的役割を果たした。  1875 樺太・千島交換条約  嫌だ 名残(なごり)の 樺太千島 1875年    日露国境確定条約のこと。樺太全島をロシア領,千島全島を日本領とした。  1875 江華島(こうかとう)事件  嫌だ 名殺す 江華島 1875年    日本の軍艦雲揚号(うんようごう)が,朝鮮漢江河口の江華島付近で示威行動を    行い,砲撃を受けた。その為,日本は永宗城(えいそうじょう)を占領した。  1876 日朝修好条規  嫌だ 奈落の 日朝修好 1876年    江華島事件後,江華府で締結された日朝間の条約。領事裁判権,関税特権など    で不平等であった。  1876 廃刀令  嫌だ 奈落に 廃刀令 1876年    明治政府は,軍人・警官以外の帯刀を禁止した命令を出した。  1877 西南戦争  嫌だ 名成した西郷が 西南戦争 1877年    明治政府の近代化政策に不満を持つ士族は,明治の元勲西郷隆盛を擁立し,熊    本城の熊本鎮台を囲むも敗れて,西郷は城山に帰って自刃(じじん)した。  1877 立志社建白  嫌だ 名成すと 立志社建白 1877年    立志社社長片岡健吉が中心となり,西南戦争中,天皇に提出したが却下された。    失政8条を揚げ,国会開設などを要求した。以後の民権運動を,国民的な国会    開設の方向へ導いた。  1879 教育令制定  嫌だ 無くせ文盲と 教育令 1879年    アメリカの教育制度を参考に学制を改正。小学校の設立経営を町村の自由裁    量とし,義務教育を 16ヵ月とした。しかし,翌年全面的に改正され,中央集権    化を強めた。 -370  1880 国会期成同盟  嫌だ 晴れの 国会期成同盟 1880年    愛国社第4回大会で愛国社を改称,国会開設運動の全国的団体と成る。  1880 集会条例  嫌だ やれ逮捕の 集会条例 1880年    集会・結社の自由を規制,同年の新聞紙条例改正と共に,自由民権運動を圧迫。  1881 明治十四年の政変  嫌だ やいと政変 明治十四年 1881年    参議大隈重信が,国会開設,憲法の制定について急進的な意見を述べたので,    払い下げ問題に関係有りとして免官した。  1881 国会開設の勅諭  嫌だ はいよと 国会開設の勅諭 1881年    即時国会開設を主張する,大隈重信を明治十四年の政変で罷免した,伊藤博文    等,薩長の漸進論者は 10年後の明治23年に国会開設を公約する,国会開設の    勅諭を出す。  1881 自由党  嫌だ はいと結党 自由党 1881年    国会期成同盟を中核に結成,総理板垣退助。政府の懐柔・弾圧により 1884年    に解党。  1882 日本銀行条例  嫌だ やにわに 日本銀行 1882年    松方大蔵卿の建議で中央銀行が設立した。 1885年より銀兌換銀行券を発行。  1882 立憲改進党  嫌だ 恥忘れ結党 立憲改進党 1882年    明治十四年の政変で下野した官僚を中心に結成,総理大隈重信。 1884年大隈    らが脱党。 1896年進歩党を結成して解党。  1883 鹿鳴館完成  嫌だ 闇に騒ぐ 鹿鳴館 1883年    東京日比谷の官営国際社交場が竣工完成した。  1884 華族令  嫌だ はしゃぐ士族の 華族令 1884年    公・侯・伯・子・男の爵位を設け,旧公家・旧大名・維新の功臣らに授与した。    将来の上院議員を構成する意図があった。  1884 秩父事件  嫌だ はしゃぐなと 秩父事件 1884年    松方デフレ政策に,秩父の農民が困民党を組織,約1万人の農民が蜂起した。    鎮圧,厳刑に処された。 -380  1885 内閣制度  嫌だ 箱庭 内閣制度 1885年    太政官制に代わって創設された最高行政機関の制度。初代総理は伊藤博文。  1886 学校令  嫌だ やるぞ統制 学校令 1886年    文部大臣森有礼(ありのり)が公布。国家主義的理念に基づき,学校体系を確立。  1886〜 大同団結運動  嫌だ やるぞ団結 大同団結 1886年    後藤象二郎(しょうじろう)らが,民権勢力を結集したが,政府は保安条例で弾圧。    89年後藤が黒田内閣に入閣して運動は崩壊した。  1887 保安条例  嫌だ 離れろと 保安条例 1887年    反政府運動の弾圧法規。第一次伊藤内閣の山県(やまがた)内相が発布。民権派    を,3年間皇居外3里の地に追放した。  1888 市制・町村制  嫌だ やや整備の 市制町村制 1888年    これまでの郡区町村編制法・区町村会法で定められた地方制度を整備した。  1888 枢密院  嫌だ やや威張る 枢密院 1888年    明治憲法草案審議の為に設置。初代議長伊藤博文。憲法制定後も天皇の最高    諮問機関と憲法で規定し,重要な国事を審議。  1889 大日本帝国憲法発布  嫌だ 箔の付いた 憲法発布 1889年    議会政治の前提としての,最高法規の制定が急がれ,伊藤博文が渡欧し,プロシ    ア憲法を範として,君主権の強大な欽定(きんてい)憲法を発布した。  1890 府県制・郡制  嫌だ 苦をになう 府県制郡制 1890年    知事は官選,府県会議員は市会・郡会などの間接選挙で選ばれた。  1890 第1回帝国議会  嫌だ 苦を背負う 議会開設 1890年    前年,衆議院議員選挙法が公布され,年額15円以上の直接国税を納める 25才    以上の男子,全人口の 1.1%が選挙権を行使して 300議席の衆議院と,それら    に無関係な,貴族院が開かれた。反政府民党系が 300の内 171を占めた。  1890 教育勅語  嫌だ 苦を押しつけ 教育勅語 1890年    教育の指導原理を示す勅語。儒教的道徳思想を基礎に,家族国家観に立ち天皇    制の強化を図る。 -390  1891 大津事件  嫌だ 悔いは無いと 大津事件 1891年    訪日中のロシア皇太子[のちの皇帝ニコライ2世]が,滋賀県大津で警備巡査の    津田三蔵に傷つけられた事件。  1894 日英通商航海条約  嫌だ 供養すると 通商航海条約 1894年    領事裁判権の廃止,関税自主権の一部回復を実現し, 97年までに他の欧米諸国    とも調印した。  1894 日清戦争  嫌だ くよくよと 日清戦争 1894年    日清両国の朝鮮政策の衝突から開戦。近代装備の日本軍が勝利し,日本全権    伊藤博文・陸奥宗光と,清国全権李鴻章との間で, 95年4月 下関条約締結。  1895 下関条約  嫌だ 救護の要る 下関条約 1895年    清は朝鮮の独立を認め,日本へ遼東半島・台湾・澎湖(ほうこ)諸島の割譲.賠償    金2億両(テール)の支払いなどを承認した。李鴻章が銃撃され怪我をした。  1895 三国干渉  嫌だ 救護と称し 三国干渉 1895年    露・独・仏が,遼東半島還付を要求。政府は対抗出来ず,勧告を受け入れた。  1896 進歩党  嫌だ 苦労知らぬ 進歩党 1896年    改進党を中心に少数派政党が加わり結成。党首大隈重信。  1897 貨幣法  嫌だ 急なお達し 貨幣法 1897年    日清戦争の賠償金を準備金として,貨幣法で金2分(0.75g)を金1円と定める    金本位制が確立した。  1897 労働組合期成会  嫌だ 急な組織の 組合期成会 1897年    高野房太郎・片山潜(せん)らが,労働組合結成促進の母体として組織した。    1900年の治安警察法の弾圧で衰え,翌年解消した。  1898 隈板(わいはん)内閣  嫌だ 苦は知るか 隈板内閣 1898年    憲政党を基礎に日本最初の政党内閣で,総理大隈重信,内相に板垣退助が居た    ので,隈板内閣と言われる。文部大臣尾崎行雄(ゆきお)の「共和演説事件」で    分裂・崩壊した。  1900 治安警察法  行くぞ 大忙し 治安警察法 1900年    第二次山県内閣が公布。労働者の団結権・罷業権を禁止し,警察権の拡大強化    を図った。 -400