大鏡2・解説

作品について

 大鏡

登場人物

  語り手

  聞き手

  筆者

  花山院:この時在位中だが、やや軽薄なところがあったらしく、道長兄弟に肝試しを命じる。

  入道殿:藤原道長(966〜1027)。兼家の4男で、藤原氏の全盛期を作り出した。大鏡は、藤原氏がこの全盛期に至るまでの道筋を物語ることを目的としている。大鏡でこの話が物語られた時点では、出家していたので、このように呼んだ。花山天皇在位の頃は、19歳から20歳で、五位の蔵人であった。

  道隆:藤原道隆(953〜995)。兼家の長男で、中の関白家の祖。この家は息子伊周の代に没落。花山天皇在位の時は、32歳から33歳で、三位の中将であった。

  道兼:藤原道兼(961〜995)。兼家の次男で、粟田殿と呼ばれた。これも早死に。花山天皇在位の時は、24歳から25歳で、頭の中将で、天皇の側近の立場にあった。その立場を利用して、天皇を陥れたという話は、大鏡の「花山院」の巻にある。(作品選択から大鏡1を見よ)

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花山院:花山天皇(在位984〜986)。退位し、花山寺に入ったので、花山院と呼ばれた。退位の事情につては、大鏡1を身よ。

 下つ闇:陰暦で月の下旬、月の出が遅くて、暗い夜。

 五月雨も過ぎてうっとうしく降る五月雨としても度が過ぎて。別の解釈に、五月雨の頃も過ぎて

いとおどろおどろしく:暗い夜に雨がひどく降るから恐ろしいのである。

 かき垂れ:雨の激しく降る様子。「降る」に掛かる。

 :花山天皇。天皇が夜の居間にいて、そばに廷臣が控えて、帝の退屈や寂しさを慰めている。そうするのも、高位の若い貴族たちの勤めであった。

殿上:殿上の間。天皇の居間に近く、宿直の貴族たちが控えている。天皇と貴族たちの接触の場で、ここに出仕を許されることはたいへんな特権であった。

 遊び:遊びといったら、管弦の遊び。天皇や貴族が楽器を分担して、合奏して楽しむ。

物語:ここでは退屈しのぎに話す世間話。

 昔恐ろしかりけることども:こういう寂しい夜だから、当然、怪談話が出てくる。平安時代の人々にとって、夜の闇は、物の怪が跳梁する、現実的な恐怖を与える場面であり、鬼にさらわれたり、物の怪に襲われたりする話がたくさん伝えられている。

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「今宵こそ:帝の言葉。

 ’めれ:名詞「夜」に断定「なり」連体形がついて述語とし、さらに見ることによって推量する「めり」の已然形がついている。「なり」の連体形「なる」は撥音便となって、「なん」となるが、「」が無表記とされて、このような形となった。今、室内にいるのだが、夜の中に出ていったら、という想像の言い方から、推量が用いられているのだろう。

人がち:殿上の間に多くの貴族が宿直しているのだが、そこでさえ何か変わった様子がする、ということ。

もの離れたる所:大内裏の中の、人気のない所。広大な大内裏には、建物が並んでいるとはいっても、夜はほとんど人気がなかったらしい。

 さあらむ:そんな所。推量「む」は推量していないから、婉曲となる。

 往なむや:動詞「往ぬ」未然形に推量「む」終止形がつき、さらに疑問の係助詞「や」がついて、疑問文をつくっている。いくだろうか。この疑問は、もちろん、行かないに決まっているから、反語となる。天皇は、そんな人間がいないことを確信している。

「えまからじ:殿上の間にいた皆の答え。副詞「え」+打消は不可能だから、打消推量「じ」がつくと、行くことはでいないでしょう謙譲の動詞「まかる」は、やはり天皇に対する敬意であろう。

 とのみ:副助詞「のみ」は、この場にいた人たちが異口同音にそのような答えばかりをした、ということ。

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入道殿:藤原道長。大鏡でこの話が物語られた時点では、出家していたので、このように呼んだ。花山天皇在位の頃は、19歳から20歳で、五位の蔵人であった。

 まかり:謙譲の動詞「まかる」に完了「」未然形と推量「」終止形がついている。「まかる」(行く)動作の主語は私(道長)だから、推量「」は意志の用法。すると動作が完了するかどうかは問題でなくなるから、完了「」は強意の用法となる。きっとまいりましょう。謙譲は天皇に対する敬意であろう。

さる:連体詞「さる」はそのような。後で述べるような行為をさす。

行け私が命令する所へ行け、というのだが、どうしたわけか、言い出した道長ばかりでなく、その場にいた兄達も行かされることになった。この時、兄達はかなりの高官であったから、そのような軽々しいことはしなかったろうという説もあるが、ここでは、兄達の家系に比べて、道長の家系が全盛を極めた理由を道長の剛胆さに求めようとしているので、兄達の臆病さが比較される必要があったのであろう。

 道隆:(みちたか) 藤原道隆(953〜995)。兼家の長男で、中の関白家の祖。この家は息子伊周(これちか)の代に没落。花山天皇在位の時は、32歳から33歳で、三位の中将であった。

 豊楽院:(ぶらくいん) 節会(せちえ)や大嘗会(だいじょうえ)などの儀式を行う巨大な殿舎。行事がない時は無人であったろう。

 道兼:(みちかね) 藤原道兼(961〜995)。兼家の次男で、粟田殿と呼ばれた。これも早死に。花山天皇在位の時は、24歳から25歳で、頭の中将で、天皇の側近の立場にあった。

 仁寿殿の塗篭:仁寿殿(じじゅうでん)は相撲(すまい)・蹴鞠(けまり)などが行われた殿舎。これも夜は無人であったろう。塗籠(ぬりごめ)は開放的であった平安時代の建物の一部を壁で囲った部屋で、衣類・道具をしまった。仁寿殿は、三人の中でいちばん近いが、閉ざされた部屋に入るのはとても恐ろしかったろう。

 大極殿:(だいこくでん) 即位などの儀式をおこなう最も正式の御殿。普段は使わない。

君達:(きんだち) 貴族の子女。17歳で即位した天皇を取り囲んでいた若い貴族たち。

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奏してけるかな道長は申し上げたものだな。「奏す」は天皇に申し上げるという謙譲語。

 殿ばら:殿たち。兄の道隆と道兼。

 御気色変はりて:闇の中に物の怪や鬼が潜んでいると信じていた当時の人々にとって、冗談ごとではなかったので。

さる:連体詞でそのような。道長は恐ろしさのあまり顔色の変わることもなかった。

私の従者:道長のことば。自分の従者。ここの「私」は代名詞でなく、名詞。どの貴族も個人の召使いを連れて宮中に来ていた、その頼りになる家来を連れていかない、と宣言している。

 :宮中警備員の詰め所。

吉上:宮中警備の役人で、宮門警備にあたった。

 滝口:宮中警備の役人で、宮中警備にあたった。

 ・・まれ、・・まれ:・・であっても、・・であっても(かまわない)。「まれ」は係助詞「も」+「あれ」(動詞「あり」已然形)のつづまった形で、連語として扱う。

  どちらの役人でもいいから、大極殿の入り口の昭慶門まで送れという天皇の命令を出してほしい、ということ。自分の従者では公平な証人にならないから、これらの役人(複数の人間であろう)に自分が大極殿の入り口まで行ったことを見届けてほしいと言っている。同時にそこまでは警備してもらえる。ところが、大極殿の中までついて行ったら、一人で行ったことにならないし、いっぽう、中までついて行かなかったら、ほんとうに道長が入ったか分からないわけである。そこで天皇は何を証拠とするのかと問う。

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それより昭慶門から。

2「証・・:帝のことば。一人で行っては証拠(証人)がないぞ

 げに・・ほのとうに帝のおっしゃる通りです

 御手箱:帝の物入れの箱。

いま二所:道隆と道兼。

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子四つ子の四つという時を。今の午前零時半ごろ。

 奏して:係の役人が一刻(2時間)ごとに時刻を大声で申し上げる、その声があって

 かく:このように。肝試しのため、誰がどこに行き、証拠はどうするかという議論がこのようにされて。

:丑の刻。いまの午前1時がら3時ごろ。議論しているうちに、1時間くらいたったろうと語りでが過去のことを推量している。ますます気味の悪い時刻。後世でも幽霊は丑三つ(午前3時から3時半)に出てくる。

 右衛門の陣:右衛門府の詰め所。内裏の西にあった。

承明門:紫宸殿の正面にあった門。内裏の中に行く道兼は門を通らないので、指示がない。

 それ:出る所。

中の関白殿:右衛門の陣に向かった道隆。後に関白になってからこのように呼ばれた。

 :指示された右衛門の陣。

 念じて怖いのを我慢して

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宴の松原:豊楽院の北側にある松林。いろいろな怪談が伝えられていた。

 そのものとこれは誰の声だ、と

 声ども:接尾辞「ども」は複数を表す。

帰り給ふ:道隆は怖くて帰ってきてしまった。

 粟田殿は:仁寿殿の塗籠に行くよう命じられた道兼は。京都粟田口に山荘を持っていたのでこう呼ばれた。

 露台:紫宸殿と仁寿殿のあいだにある屋根のない舞台。

:(みぎり)軒下に雨を受けるために石を敷いたところ。

 軒とひとしき人:殿舎の軒と同じ背丈の人。もしいたら、巨人である。仁寿殿にも怪談があった。

見え給ひければ:恐怖のため、ありもしないものを見たのである。

 「身の候はばこそ・・:この時、道兼の思ったこと、または、逃げ帰ってから二人が言い訳として言ったこと。いくら天皇の命令でも、死んでしまっては、命令を受けることはできない、という意味。

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各々:道隆と道兼がそれぞれ。

 たち帰り参り給へれば:殿上の間に戻ってきたので。謙譲の補助動詞「参る」は天皇を、尊敬の補助動詞「給ふ」は道隆と道兼をうやまっている。

 御扇をたたきて:帝は扇をたたいて。手をたたくかわりに扇を打つ。

入道殿は:大極殿に行くことを命じられた道長は。

思し召す:帝がお思いになっている。

 あらずげにて:名詞「事」に、名詞を述語化するための断定「なり」がつく。係助詞「も」と打消「ず」をつけるため、補助動詞「あり」を用いたので、断定「なり」は連用形「」になった。こうしてできた「事あらず」全体に接尾辞「げ」をつけて形容動詞にしてしまった;「事もあらずげなり」。この連用形「事にもあらずげに」に接続助詞「て」がついている。なにくわぬ顔で

参らせ給へる:道長が参上なさった。謙譲の動詞「参る」は天皇を、尊敬の助動詞「す」連用形と尊敬の補助動詞「給ふ」は道長をうやまっている。

 「いかにいかに・・。:帝の言葉。「ある」などが省略。どうだった

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御刀に、削られたる物:先ほど天皇から借りた小刀と、その刀で削られた木片を。

「こは・・:天皇のことば。木片の意味が分からなかった。

 「ただにて・・:道長のことば。

 帰り参りて侍ら:複合語の動詞「帰り参る」は「参る」の部分が謙譲の意味をもち、天皇をうやまっている。丁寧の補助動詞「侍り」を使って、周囲にいる聞き手をうやまうため、「帰り参る」を連用形にして(さらに接続助詞「て」をつけて)「帰り参りて侍り」の形をつくる。仮定の気持ちをそえるため、推量「」をつけ、これを連体形・準体法にして(形としては「」のままだが)、こうしてできた一種の名詞に係助詞「は」をつけている。もし帰って参りましたら、それは

候ふまじき:動詞「あり」の丁寧語「候ふ」に打消推量の「まじ」をつけ、連体形・準体法にしている。ございませんでしょうこと(により)

 高御座:大極殿中央の玉座。

 南面の柱:当時の大きな建物は円柱を並べて建てられていた。道長は、北側から入って、南側の円柱のところまで行ったことになる。

 削りて候ふなり:動詞「削る」に丁寧の補助動詞「候ふ」をつけ、聞き手をうやまっている。このため動詞は連用形になり(さらに接続助詞「て」をつけている)。「候ふ」を連体形・準体法(形は同じだが)にして、この全体をいわば名詞として扱って、名詞を述語にする断定の助動詞「なり」をつけた。このようなもってまわった形を使うことによって、説明の言い方となる(説明が必要のないことなら、強調の言い方になる)。つまり、この木片はそのようにして手に入れたものなのだ、と説明している。

いとあさましく思し召さる:大極殿まで行ったばかりでなく、証拠として柱を削ってきた道長の剛胆さに、天皇はたいへんあきれるほど驚嘆なさった、ということ。

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異殿たち:道隆と道兼。

 直らで:青い顔をして戻って来たが、その顔色がまだ直らないで。

 この殿:道長。

かくて:このように少しも動じない様子で。

うらやましきや・・、いかなるにか・・:ともに「あらむ」などが省略。形容詞「うらやまし」を連体形・準体法にして、これに断定「なり」をつける(一種の強調)。さらにこれに疑問の係助詞「や」をつけるため、「なり」を連用形「」にして、補助動詞「あり」に推量の「む」連体形をつける:「うらやましきにや あらむ」(うらやましいのであろうか)。この「あらむ」が省略されている。「いかなるにか」も同様。

候ひ給ひける:「あり」の謙譲語「候ふ」は天皇をうやまっている。つまり、偉い人のそばにお仕えして、いる。なにをしなくても、いること自体が臣下としての役目をはたしていることになる。二人の兄としては、席をはずしたいところだが、がまんしてその場にいたのだが、この剛胆な弟を競争相手として押さえつけていこうとする。それに対する道長の反発の話も、「大鏡」に語られている(競べ弓)。

  「給ふ」連用形は道隆と道兼に向けられた敬意。

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疑はしく思し召されければ帝はうそかもしれないとお思いになったので。花山天皇もそうとう執着する性格である。

 蔵人して:「蔵人(くらうど)」は天皇のそば近く仕えた侍従。格助詞「して」は使役。天皇がそうするよう蔵人に命令した。

 削り屑:道長が大極殿の柱から削ったものだと報告した木片。

持て行きて:蔵人がそれを大極殿まで持って行って。

見たうびけるに:「たうび」は尊敬の補助動詞「給ふ」連用形の変化した形。蔵人をうやまっている。

4侍めり:謙譲動詞「侍り」連体形「侍る」に推量「めり」 がついて、 語り手の天皇に対する敬意と自分が見ていないことへの推量が表されている。連体形「侍る」は撥音便になっているが、「ん」は無表記である。

 見る人:その削り跡を見る人。実際にその削り跡を見た人は、道長の剛胆さを驚きあきれたことだと語り手に語ったのであろう。