大鏡1・解説

作品について

  大鏡:「栄華物語」よりあとにつくられた歴史物語。文徳天皇(850年)〜後一条天皇(1025)までの天皇と藤原氏の大臣の事績を紀伝体で物語ったもの。藤原道長の栄華に至るまでの経緯を劇的に語ったもので、歴史物語の最高傑作。作者は不明であるが、非藤原氏の男性貴族であろうと思われる。

登場人物

  語り手:大宅世継(おおやけの よつぎ) 雨林院の菩提講(1025年)で文徳天皇から藤原道長までの歴史を物語る。このとき190歳ともいうので、花山天皇の事件のあった時には、150歳ごろということになる。

  聞き手:雨林院の菩提講で世継に出会ったときは180歳だという夏山繁樹(なつやまの しげき)、その妻、若い侍(貴族の召使い)、そして筆者をふくむその周りの人々。繁樹と若い侍は、ときどき口をはさんで、自分の情報を付け加える。

  筆者:たまたま雨林院の菩提講で世継らに出会い、その老齢にあきれながらも、彼らの物語ることを聞き、(のちに)筆記したが、講がはてた後、世継らを見失ってしまう。

  花山院の天皇:花山天皇(かざんてんのう)(第65代。968〜1008)。冷泉天皇の第一皇子。名は師貞。永観二年即位。在位1年10か月。出家して東山花山寺にはいったのでこのように呼ばれた。986年6月22日の夜、愛する弘徽殿の女御の死を悲しんで突然出家した。

  粟田殿:(あわたどの)。藤原道兼(みちかね)(961〜995)。兼家の次男。のち、関白となって、7日後に死亡した。この時は、花山天皇の蔵人(側近)として仕えていた。出家しようとする天皇に従って、花山寺まで供をした。

  東宮:一条天皇(第66代。980〜1011)。円融天皇の第一皇子。名は懐仁(やすひと)。寛和二年即位。

  弘徽殿の女御:し(Unicode:5FEF)子。花山天皇最愛の妻で、985年7月18日、懐妊したままで死んだ。

  大臣、東三条殿:藤原兼家(かねいえ)(929〜990)。粟田殿、藤原道兼の父。花山天皇は兼家の兄、伊尹(これただ)の孫にあたり、東宮(のちの一条天皇)は兼家の孫であった。兼家・道兼父子にとって、一刻もはやく東宮に即位させたかった。

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次の帝:文徳天皇(第55代天皇。827〜858)から歴代天皇の事績を伝記の形で物語って、花山天皇(第65代(968〜1008))に至ったところ。

 花山院の天皇:花山天皇(かざんてんのう)冷泉天皇の第一皇子。名は師貞。永観二年即位。在位1年10か月。出家して東山花山寺にはいったのでこのように呼ばれた。和歌、画がじょうずで、「拾遺和歌集」の撰者ともいわれる。

 申しき:過去「き」は直接体験であるから、語り手が自分の見聞したことを物語っていることになる。

 永観二年:984年。

 二十八日二十二日はつか あまり やうか、はつか あまり ふつかと読めなくはないが、音読みでよいのではないか。

 つか給ふ:動詞「つく」未然形に尊敬の助動詞「」連用形がつき、さらに尊敬の補助動詞「給ふ」終止形がそえられている。尊敬が二重に使われているので、二重尊敬といい、地の文で使われているので、天皇レベルの最高位の人に使われる最高敬語となっている。

寛和二年:986年。わずか1年10か月後。

人にも知らせさせ給はで:本来、天皇が退位するのはたいへんなことで、出家するときも、多くの貴族が参列するなかでその儀式が行われるものであった。花山天皇にも、有能な補佐役がいて、現代からも評価されるような政策を実施していた。

 花山寺:(「かざんじ」、古くは「かさんじ」)元慶寺(がんぎょうじ)の別称。京都市山科区北花山にある真言宗の寺。元慶元年創建。

出家入道:出家も入道も、家を出て仏門にはいること。または、その人。

  入道は、特に、皇族や三位以上の貴族などが仏門に入ることや、その人を表す。また頭を丸めているが、在俗生活のままで仏道修行をしている者もさす。

 せさせ給へりしこそ・・:丁寧の補助動詞「はべれ」已然形などが省略。

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あはれなること:語り手(大宅世継)の感想。冒頭で、淡々と語ったこの天皇(在世期間は短くはない)の在位期間は、異常な短さであるが、それにはこのような驚くべき事情があったのだ、と詳しく語りはじめる。

 おりおはしましける夜:上述の986年6月22日の夜。

藤壷の上の御局:内裏で、后、女御、更衣が清涼殿内にたまわる局(部屋)の一つ。

 小戸より:どんな戸か不明だが、いずれにしても在位の天皇が使うべき正式の出口ではない。

 出でさせ給ひけるに:宮中をお出になったが。

「顕証にこそ:天皇の言葉。次に出てくる粟田殿に対して言ったもの。ここでこんな相談をするのは、出家の意志がそれほど固くなかったことをうかがわせる。宮中を抜け出そうとして見つかったら、たいへん恥ずかしいことになるのを恐れている。

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「さりとて、:粟田殿の言葉。月が明るすぎて、見つかるかもしれないといって

 とまらせ給ふべきやう中止なさるのが当然である状況は。事態は後戻りできないところまできていると言って、帝のためらいを一蹴している。

  粟田殿、藤原道兼は父としめしあわせて、花山天皇を退位させ、東宮を即位させることによって、政権を手に入れようとしていた。花山天皇が愛する弘徽殿の女御死を悲しんでいるのをきっかけに、出家するよう誘い、自分もお供に出家するとあざむいたことが、あとで分かる。もちろん、花山天皇の側近は退位させまいとすることが予想されたから、このように人知れず宮中を抜け出そうとしているのである。

神璽・宝剣:即位の印として新しい天皇に伝えられる、神璽(しんじ、「しんし」は古い読み方)は八尺瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)、宝剣は天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)。

 渡り給ひぬるには・・春宮方にお渡りになってしまっているので。「いまさら引き返せません」という意味のことばが省略されている。

先に、手づから:帝が宮中から出る以前に、しかも自分の手で神璽・宝剣を東宮のもとに移してしまった。本来なら、ことごとしい儀式によって、天皇から皇太子に譲られるはずのものである。語り手のあきれかえった口調がうかがえる。

春宮の御方:東宮が宮中で住む御殿。このときの東宮は、のちの一条天皇で、粟田殿の父、兼家の孫にあたる。

 帰り入らせ給はむこと:帝が宮中へお帰りになるようなこと。推量「む」はここでは婉曲(〜のような)の用法。推量する場面でないのに「む」が使われているので、遠回しに言っていることになる。いまさら花山天皇が宮中にいるべき場所はなくなっているのである。

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あるまじく:打消推量「まじ」連用形は打消当然の用法。ないのが当然だ。あってはならない

 しか:3ページ1〜2のように。

 申させ給ひけるとぞ・・:謙譲動詞「申す」未然形に尊敬「す」連用形がつき、さらに尊敬補助動詞「給ふ」がついている。「申す」の謙譲は花山天皇に対する話しての敬意。尊敬「す」と「給ふ」は粟田殿への敬意。尊敬が二重に使われているので二重尊敬だが、最高敬語ではない。会話のなかでは、このような使い方があらわれる。

  (と言うと、1ページ1で、地の文だから最高敬語だといったのと矛盾するが、語り手世継の語りを、会話と見るか、地の文と見るか、ゆれがあるためというのがひとつの解釈。また、ここの用法は不適切であったと考えるのがもうひとつの解釈か。)

  さらに過去「けり」連体形がつく。この連体形は連体止めで、感動表現と見てよいだろう。あとに、引用の格助詞「と」と強意の係助詞「ぞ」がついて、「言うことだ」のようなことばが省略されている。ここにも、語り手の強くあきれた思いが表現されている。

:月の光。

 まばゆく思し召しつる帝がまばゆくお思いになっている。明るいので見つけられそうだとためらっていること。完了「」は、そう思って、その影響がつづいている、ということか。

むら雲:一群の雲。

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成就するなりけり:過去「けり」は、過去のことを言う状況ではないから、詠嘆の用法。自分の出家が成就することになっていたことを、月が雲に隠されたことによって、いま知ったという感動。

 弘徽殿の女御:花山天皇最愛の妻で、985年7月18日、懐妊したままで死んだ。その死を悲しんで、天皇は出家を決意した(出家するよう粟田殿にたきつけられた)。

2御文の:「文」は女御の手紙。里下がりした時とか、天皇に送ったものであろう。格助詞「の」は同格の用法。「日ごろ破り残して、御身も放たず御覧じける」手紙と同一のもの。「日ごろ」は「御覧じける」にかかる。古人の手紙を、死に際して(古人への執着を絶つという意味で)焼き捨てることをせずに、毎日見て、古人を思い出していたもの。出家に際してこれを焼き捨てたいと思ったのだろう。そんなことをされていては、ますます発見される可能性が高まるので、粟田殿は気が気でない。

3しばし・・:「待て」などが省略。

4ほどぞかし:強調の係助詞「ぞ」と強意の終助詞「かし」が重ねられて、間髪を入れず、粟田殿が口をはさんだことを言う。天皇の人間的な悲しみの行動を自分の都合でさまたげようとする粟田殿への語り手の気持ちが読みとれる。

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かくはこのように思い切りわるく

 ただ今:この瞬間。仏教では、修行を始めるなら、あとで・・とか考えず、その瞬間、あらゆるものを捨てて仏の道に入れと教えているが、ここでは、邪魔が入るのを恐れているにすぎない。

障り出家の妨げ

 まうで来:動詞「く」の謙譲語。

 し給ひけるはなさったのは。5ページ1「弘徽殿の」から「入りおはしましけるほどぞかし」までにかかる。倒置法。本来の語順は、「粟田殿の、「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうで来なむ。」と、そら泣きし給ひけるは弘徽殿の女御の御文の、日ごろ破り残して、御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし。」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし。」となる。

3さて:そういう次第で、花山天皇は手紙をあきらめ、宮中を出ることになったのだが。

 土御門:大内裏の上東門。この後の文からは、徒歩で宮中から出たように思えるが、別の記録では天皇は牛車に乗って、粟田殿は馬で付き添ったという。

 出だし参らせ給ふ:動詞「出だす」に謙譲の補助動詞「参る」、尊敬の助動詞「す」、尊敬の補助動詞「給ふ」がついている。謙譲は天皇に対する、尊敬は粟田殿に対する話しての敬意。

晴明:安倍清明(あべのせいめい。921〜1005) 平安中期の陰陽家(おんみょうか)で、陰陽、暦術、天文の術にすぐれ、いろいろな伝説的をうんだ。家は、土御門北・西洞院東にあったので、天皇一行が前を通り過ぎることになる。

 みづからの声:天皇も粟田殿も、清明自身の声だとわかった。

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打ちて:柏手を打つこと。天変を示した神に対して恐れかしこむさま。

 天変:天文上の異変。日食・月食・彗星・暴風・雷などから、人間界の異変を読みとるのが清明の仕事であった。

なりにけりと見ゆるかな:帝退位の予兆があったが、すでに退位は完了したと思われる、ということ。ここでは、清明の予知能力のすごさを言っている。話の本筋には関係ないが、当時の人々の関心を呼ぶ主題であった。

 奏せむ天皇に報告申し上げよう。その天皇はもういないのだが、異変があったら、すぐ報告するのが義務だったので、政権をとる者に言わないわけにいかない。

装束:牛車に牛を付けたり、外出の用意をすること。

 聞かせ給ひけむ帝がお聞きになったであろうことは

とも:副詞「」+補助動詞「あり」+接続助詞「とも」の融合した形。そうあったとしても

 あはれには思し召しけむかし:自分の退位がすでに天変によって予言され、月をむら雲が隠したこととともに、変えようもない運命であったことに気づき、感慨をおぼえたであろう、ということ。

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式神:陰陽師が使う、目にみえない鬼神。あとの「目には見えぬもの」のこと。これを自分より前に内裏に派遣するのである。

 申しければ晴明が言ったところ。このばあいの動詞「申す」に謙譲の意味はほとんどないのではないか。

御後ろ:このとき帝はすでに通り過ぎていたので、後ろ姿を見たということ。

答へけりとかや・・:「言ふ」などが省略。

 土御門町口:土御門通りと町口通り(西洞院東と室町通りとの間)とが交差する所。

御道なりけり:過去の助動詞「けり」は、過去の意味でもよいが、文脈から詠嘆の用法とした。花山天皇一行と安倍清明との劇的な出会いに感動している。

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御髪おろさせ給ひて帝が髪を剃って、出家なさって

大臣:東三条殿、藤原兼家。粟田殿の父。花山天皇の退位・出家は、この父子の謀略だった。

かくと案内申してこのような事情で天皇のお供として私も出家しますと話して。そんなことを言えば、だめだと言われるのに決まっているから、父が許さないので、出家できませんと答えるつもり。帝に対しては、月が明るいからとためらってはいけない、女御の手紙を取りに戻ってはいけない、と言いながら、自分では出家前に父親に会ってくると言う身勝手さ。

 必ず参り侍らむ:必ず戻ってまいりまして、お供に私も出家いたします、ということ。もちろん、うそ。

謀るなりけり:さすがの花山天皇もやっと気がついた。過去「けり」は詠嘆の用法だが、〜なりけりは気がついたときの言い方。

 泣かせ給ひけれ帝はお泣きになったのだ。いまさら後悔しても遅いが、そのせいか、この後、花山院は、仏道修行に熱中したと思うと、恋人を訪ね歩いてスキャンダルを起こしてもいる。

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あはれに悲しきこと:このように天皇がだまされて出家したことについて言う。

 御弟子にて候はむ:粟田殿のことば。「御出家後は私も出家して、あなたの家来の僧としてお仕えもうしましょう」。あなただけを出家させません、ということ。

すかし申し給ひけむが恐ろしさよだまし申し上げなさったことの恐ろしさよ。謙譲の補助動詞「申す」は花山天皇に対する、尊敬の補助動詞「給ふ」は粟田殿に対する敬意。過去推量「けむ」は、過去に意図的にだましたのであろうと推量している。これが連体形で準体法の用法だから、「・・ことの」と解釈できる。このことの報いがきっとあるだろう、という気持ちで、事実、粟田殿は自分が権力を握ってから7日後に死亡した。

東三条殿:大臣、藤原兼家(かねいえ)。粟田殿の父。この事件の立て役者。

 さること:「さる」は連体詞。そのようなこと。つまり、出家。息子がのっぴきならなくなって、ほんとうに出家することを恐れた。

さるべく:副詞「さ」+補助動詞「あり」連体形からできた連語に推量「べし」当然の用法がついている。当然そのようである。「人々」に掛かるので、こんなときにふさわしい人々、ということ。状況におうじて粟田殿を守れる判断力のある家来のこと。

 なにがしかがしだれそれ。実名を省略した言い方。

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いみじき源氏の武者たち名だたる源氏の武士たち。父大臣が、判断力のある家来と武力をもつ武士とを伴わせて、息子を守ろうとしたことがわかる。「こそ」・・「けれ」已然形の係り結びは、その用意周到さに対する驚き。

堤の辺り:ここで京都の市街が終わる。そこから騎馬の武装集団が姿を現して、随行したのである。これも、「ぞ」・・「けり」連体形の係り結びを用いて、強調している。天皇の心からの側近も含めて、他人の手出しを許さないという姿勢。

寺など:花山寺や道中(で)。

 人などやなし奉るだれかが粟田殿を僧にさせもうしあげるのではないか。供の者達の気持ち。謙譲の補助動詞「奉る」は粟田殿に対する敬意。あなたは天皇のお供をすると約束したのだから、出家しなさいと粟田殿に強制する者が出て来たら、実力で排除しようというつもりだった。

一尺:30センチメートルほど。ちょっと短い気もするが、いつでも武力で守護するぞという姿勢。ここも「ぞ」・・「けり」連体形の係り結びを用いて、強調。周到に準備された陰謀であったことへのあきれかえった気持ちであろう。