木曾殿の最期解説

作品について

 平家物語

 (ここまでのあらすじ) 平清盛は、保元・平治の乱にうち勝って、太政大臣にまで成り上がった。清盛だけでなく、一門の権勢に並ぶものはなく、「平家にあらずんば、人にあらず」とまで言われた。
 反平家の動きはまず貴族社会から生じたが、平家の武力の前に敗れ去った。しかし、その貴族の命令を奉じて、1180(治承4)年に源頼朝が東国で挙兵し、翌年清盛が世を去ると、一斉に諸国で平家打倒の兵が起こった。なかでも源義仲は、北国で立って、平家の軍勢をうち破り、平家一門を安徳天皇を奉じて西国へ落ちていかせた。
 こうして飢饉と戦乱に荒れ果てた都に入った義仲軍は、都の人々から反感を持たれ、後白河法皇は義仲追討を頼朝に命令した。平家と東国勢の挟み撃ちにあい、木曾の軍は瓦解する。京を追われた義仲は、北国へと落ちる途中、乳母子の今井兼平と再会し、鎌倉の軍勢に最後の戦いを挑む。(巻第九)

登場人物

 源義仲:(1154〜1184)木曾で成人したので、木曾の冠者とも呼ばれ、平家を追い落として都に入ってから、朝日の将軍の称号を与えられ、左馬頭となった。頼朝のいとこにあたり、息子を鎌倉の人質としていたが、結局、老獪な後白河法皇と頼朝の間で利用されたあげく、自滅する。天性の野人で、都の作法を知らず、平家物語でも嘲笑の的となるが、その滅亡にあたっては悲劇的な英雄として描かれる。

 今井四郎兼平:義仲の乳母子。武士の場合、乳母子は主人と生死を共にすることが期待され、彼も最後まで義仲に忠実だった。

 巴:義仲の妻のひとり。男まさりの勇士であるとともに、深く義仲を愛していた。

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 (「たり」の文法的意味について)品詞分解に際して、助動詞「たり」は、基本的には完了(た、してしまう)であるが、「ている」と訳されるときは存続(正確には、動作・状態の継続)とみたほうがよい。このため、参考書で「完了」としている「たり」を「存続」としている部分がある。

その日の装束には・・:軍記物語は、武将が登場すると、その武具を馬の鞍にいたるまで詳細に描写する。それが聞き手の武士にはよくイメージされたのであろう。ここでも木曾義仲は、最後の戦に向けて美々しく装っている。

 錦の直垂唐綾威の鎧石打ちの矢:いずれも大将でなければ手に入らない、高価な美しい武具・武器である。

石打ちの矢」、「その日のいくさに射て少々残つたる」を石打ちの矢」「その日のいくさに射て少々残つたる(矢)」は同じ物、そこで同格の「」でつないでいる。

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「馬」、「きはめて太うたくましい」に:これも同格。当時の馬は、蒙古系の、背が低いが重い物(武者と鎧)に耐えられるひたすらたくましいものだった。

鐙踏んばり立ち上がり:鞍の上に尻を乗せていたものを、鐙に掛けた両足に体重を載せて立ち上がる。すこしでも背を高くするためである。運動会でも、腰を降ろしたままの騎馬は負けてしまう。

名のりけるは:当時の戦いは、基本的に1対1で、まず互いに名乗ってから戦った。名乗りは、次にあるように、自分の地位と名、さらには先祖をも明らかにし、相手に挑戦するものであった。

聞きけんものを:「その名を」を補う。

 見るらん:「目のあたりに」を補う。義仲は、木曾にいた時は、無位無冠だったのである。「木曾の冠者」は「木曾のあんちゃん」位のものか。しかし、武勇においてはすでに有名だったと自負している。

 昔は聞きけんものを、・・今は見るらん:昔のことを過去推量「けむ」で、今のことを現在推量「らむ」で表現している。

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伊予守:義仲が平家の根拠地であった伊予守を兼任しているということは、いずれ平家を追討するという意味であった。

 甲斐の一条次郎・・:「そこの軍勢は」を補う。

兵衛佐:頼朝のこと。敵であるが、実名を呼ぶことをしていない。

駆く:当時の戦法は、かなり近くまで馬を近寄らせて、弓で射るというものだった。

者ども・・若党:武士が戦争に出かけるときは、必ず一族がそろって一部隊を構成した。それぞれが武装して、馬に乗って、郎党という徒歩の部下を従えていた。甲斐の一条次郎はそうした集団の長で、「者ども」は部隊の構成員に指図したもの。「若党」は若い郎党のこと。郎党は郎党同士で戦うとともに、馬から落ちた相手のとどめをさし、首をとった。

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六千余騎:「一条次郎の軍の」を補う。甲斐の一条次郎は甲斐源氏の長として、それだけの武者を動員できたということ。それぞれの武者は、武装・馬と食料を自弁し、自分の郎党をしたがえているわけである。

駆けわつて:「縦横無尽に」を補う。

 後ろへつつと出でたれば:「敵の」を補う。一条次郎の軍勢をうち破って通り抜けたということ。

そこ一条次郎の軍勢

 土肥次郎実平・・土肥次郎実平が動員できた部下は2000あまりの騎馬武者であった。

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駆けわり駆けわり行く:次々に敵軍を突破して行く様子は、史記の「項羽本紀」で項羽が漢軍を次ぐ次に突破して、ついに壮烈な最期を遂げる場面を思い起こさせる。

 主従五騎:あとで分かるが、義仲、巴、今井四郎、手塚太郎、手塚別当である。

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行け:「逃げのびて」を補う。

木曾殿の・・:「死後に」を補う。

なほ:「巴は」を補う。

 落ち行かざりける:「落ち行く」という複合動詞に係助詞「」が付くとき、間に割り込む。同じ例は、8−3「落ち行く」がある。また、「」が接続助詞として使われるのは、中世語からのこと。

 あまりに:「木曾殿に何度も」を補う。

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あつぱれ:形容動詞「あはれなり」の語幹「あはれ」を独立して用いて、強く発音した形。

 よからう:「よからむ」の婉曲「む」がウ音便になった。推量・意志の助動詞「む」はこのように中世以降「う」になっていき、現代語の形ができた。

  よから>よから>よかろ

  よま>よま>よも

見せ奉らん:「木曾殿に」を補う。これが巴なりの愛情表現だった。

御田八郎師重・・:御田八郎師重が率いる同族の武士団は80人の馬に乗った武者たちだった。

押し並べ:「馬を」を補う。馬同士を並べるようにした。運動会の騎馬戦なら、お互いに押し合って、相手の帽子を取ろうとしている状態。

 むずと・・:「八郎を」を補う。馬上で八郎を押さえつけてしまった。このように、当時の武士に要求された戦闘術は、馬を操ること、弓を射ること、そして相手と組み合うことであった。鎧を着た同士の太刀打ちはあまり効果的でなかった。

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鞍の前輪に:「相手の体を」を補う。鞍には前後に板が立ててあり、そこに鎧を載せるようにして、またがる。馬上で組み合うと、ふつう、二人とも落馬してしまうが、巴が圧倒的に力が強かったので、相手を押さえ込んでしまったのである。

首ねぢ切つて:「巴は」を補う。馬上にしろ、地上にしろ、このように相手を押さえ込んで、小刀で首を切り落とすのが、戦闘法であった。柔道で押さえ込みの技があるのは、その名残であろう。もちろん、江戸時代の首切り役人のように、一刀のもとスパッと切り落とすのではない。そうして取った首は、戦功のしるしであるが、巴にとっては、今は価値のないものなので、捨ててしまったのである。

 物の具脱ぎ捨て:戦線を離脱したということ。

手塚太郎・・:「五騎のうちの」を補う。

 手塚別当・・:「また」を補う。

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のたまひけるは:「木曾殿が」を補う。

御着背長:大将の着用する鎧の別称。「御」は尊敬の接頭辞。

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か・・おぼしめし候ふべき:疑問文の形だが、兼平にとって当たり前のことを尋ねているので、反語。

 御勢:義仲の直属の部下としては、兼平や手塚たちしかいなかったのである。他の武者は、義仲の名声につられて加わったに過ぎない。義仲が不利だと知ると、みな逃げてしまったわけである。

兼平:「私」と言うかわりに、自分の実名を言う。

防き矢つかまつらん:追撃してくる敵をここでくい止めようということ。

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御自害候へ:兼平が時間をかせぐあいだに、切腹せよということ。

あの松原粟津の松原

義仲:これも自分の実名を呼んでいるので、「私は」ということ。

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なるべかりつるが:「つる」は完了「つ」の連体形であるが、ここで動作は完了していないので、強意とみた。

 これまで逃れ来るは:義仲と兼平は二手に分かれて鎌倉の軍勢を防ごうとしていた。破れたあと、二人とも相手を探して、行き会ったのが、この部分の冒頭。

ひと所でこそ・・:ともに同じ乳母の乳を飲んで育った義仲と乳母子の兼平のつながりの強さがわかる。平家の滅亡の場面でも、平家の公達とその乳母子がともに海に沈む描写がある。

馬の鼻を並べて:二頭が並列になって。

馬の口に取りついて:くつわを押さえられた馬は、動くことができない。そうするために、自分の馬から飛び降りたのである。

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申しけるは:「馬をとどめて」を補う。

不覚しつれば:いさぎよく死なないという失敗。

御身は疲れさせ給ひて候ふ。続く勢は候はず。:先に言ったことと矛盾するが、前は力づけるため、ここでは自重させるため。

 続く勢は:「味方の」を補う。

敵に押し隔てられ:あなたと私の間に敵が割り込んで、互いに助け合えない状況になって。

 言ふかひなき人の郎等:「人の郎等」は「どこかの武者の家来」ということ。「言ふかひなき」は「郎等」にかかるので、「どこかの武者の、名もない家来」。

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討たれさせ給ひなば:「な」は未然形だから、「ば」は順接仮定条件。「もし・・ならば」。

申さん:「世の人々が」を補う。

さらばとて:「さらば」は、「さ(そのようだ)」+「あら」+「ば」で、「そうならば」ということ。「さらば、いなむ(それならば、行きます)」が省略されて、後世「さらば」が「さようなら」の意味になった。

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五十騎ばかりが:「敵の」を補う。

 鐙踏んばり・・:冒頭、義仲とおなじ動作。対等の一騎打ちを挑んでいるが、これはもちろん、時間をかせぐため。

御乳母子:兼平の母が義仲の乳母だった。

鎌倉殿:頼朝のこと。ここで身分の低い者と相手にされなくては、目的を果たせないので、せいぜい、自分の価値を吹聴して、自分を打てば、鎌倉殿の恩賞にあずかれるぞと言っている。

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見参に入れよ:「この首を鎌倉殿に」を補う。

2:「失つぎ早に」を補う。

 死生は・・:「相手が」を補う。

面を合はする:「恐れて」を補う。

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分捕り:敵を倒して、首を取ったり、武器を分捕ったりすること。ここでは、多くの敵を倒したということ。

 ただ:「敵は」を補う。

あきま:鎧で覆われていない所。敵に射られたときは、甲や袖をうまく使って、体を覆うのである。

正月二十一日:旧暦では早春。「二十一日」は、もはや中世なので、「とをあまりひとひ」と読む必要はないだろう。

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薄氷は・・:「薄暗かった上に」を補う。

 深田:天然の沼を田圃にしたような田で、人が入ると腰や肩まで沈んでしまう。つい最近まで、各地に見られた(有名なのは、新潟県の亀田郷)。

馬の頭も:「馬は深田にはまりこんで」を補う。

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追つかかつて:「追ひ」の促音便と「かかりて」の促音便。

 よつ引いて:「よく 引いて」からきた語だが、促音便とイ音便が使われ、「引いて」が半濁音化している。おそらく武士がこのような場合に慣用的に使った表現であろう。

 ひやうふつと:矢が飛ぶさま。これも武士の慣用的な表現だったのだろう。

取つてんげり:「取りてけり」を非常に強く言ったもの。「取り」が促音便になり、「けり」が連濁を起こして、撥音「ん」を呼び起こしている。ついに、義仲が切腹もせず、首を取られてしまったという詠嘆。

貫き:「その首を」を補う。手柄を敵味方に誇示するやり方。このようにして、手柄を後日確認してもらい、恩賞にあずかる。

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三浦の石田次郎為久が:郎党たちが主人の名を名乗っていることに注意。主人が倒した敵の首を郎党が取って、持ち運ぶのである。

たれをかばはんとてか、いくさをばすべき:「もうその必要はなくなった」ということ。

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貫かつてぞ失せにける:せっかくかばおうとした義仲の不名誉な死が、このような壮烈な最期を選ばせたのであろう。もっとも、ゆっくり切腹している暇はなかったであろうが。

粟津のいくさはなかりけれ:義仲と兼平は内出の浜で落ち合って、はなばなしく戦いながら、この粟津の松原で戦死した。その最後の粟津の松原では、このようにはなばなしい戦いはなくて、二人は戦死したと解釈される。

 別の解釈では、「このようにして粟津の松原での戦いは集結した。」とするが、原文の解釈の仕方としては問題があるだろう。