中島広足(ひろたり)の作品。播磨の国明石の浦あたりに住んでいる男が、上京の折に出入りしている貴族の屋敷で、姫君に仕えている女と恋仲となり、落ち合う機会をうかがっていた。以下の文章はそれに続く部分である。
中島広足は江戸時代の歌人。細川藩公に仕えていたが、のちやめて、文学活動に入った。
男:播磨の国、明石の浦あたりに住んでいる男。上京の折に出入りしている貴族の屋敷で、姫君に仕えている女と恋仲となり、落ち合う機会をうかがっていた。
女:都である姫君に仕えている女。男に恋する一方、都や姫君と別れることがつらく、不安である。
1かくてなほ:女と会えない夜が続いたが、今夜もやはり。
いとどおぼつかなく・・:男の気持ち。
2おぼつかなし:不安だ。
彼方より:女の方から。
3今宵もさはる:今夜もお屋敷のお勤めがあるので、支障がある。
言へば:下女が伝言を言うので。
1さるは:副詞「さ」+動詞「あり」連体形+係助詞「は」の省略形。それというのも。
2さはりあらむは:もし支障があるといって逢えないならば。
3はしたなる身になりぬれば:求婚したのにだめで、都にとどまるか、故郷に帰るか、どっちつかずの境遇になってしまったので。
4世をものがれぬべし:出家をしてしまおう。
ぬべし:強意「ぬ」終止形+意志「べし」終止形。
言ひつかはしつるに:下女と行き違いになった使いがそう言ったのであろう。
1驚きて:恋人が出家したらたいへんだと驚いて。
わりなし:どうしようもない。しかたない。
2やがて:そのまま。
絶え入りてうつし心なし:女は、慣れない外出と屋敷を忍び出るという行為のストレスで、気を失いそうになってしまった、もしくは、気をうしなった。
3例も・・:この女はいつもこのような失神する癖があると聞いたが。
しも:強調の副助詞。
4かかる:このような。
1抱き持ちて:男が失神した女を。
2やうやう:だんだん。
4いつしか:いつの間にか。早くも。
軒もあらはなる:「軒(のき)」は屋根の下に張り出た部分。寝殿などでは、奥まった部屋から見えないが、草葺きの粗末な家なので、二人のいるところから丸見えだ、ということか。
草の庵:二人がデートに使っていた、草葺きの粗末な家。
1さながらなる:名「さながら」+断定「なり」連体形。そのままである。丸見えである。
戸口さへさながらなるに:外から戸口越しに室内が丸見えだということだろう。だから、月光も差し込んでいる。
月影:「かげ」は光線によって生じた現象をさす。光のあたらない場所もさすが、ここでは「月光」。
2さそへる:動詞「さそふ」已然形+存続「り」連体形。さそっている。
うちしめりゆく:虫の鳴く声に、雨の気配が感じられる、ということだろう。
4草のたもと:「たもと」は衣類の袖の部分だが、ここでは草が風にあおられ、一斉に露が散る様子をいうのだろう。
1袖の上かな:そのように私の袖の上にも、涙がしきりとこぼれることだ。
男が、ちょっと冷たい女に、二人の将来を考えて、泣いているという歌。
2明けゆく軒の雨そそきも:夜が明けていくが、雨が降り続き、軒から雨だれが落ちている、ということ。
しきる:動詞「しきる」連体形。(「る」は語尾)
3人や見つけむ:人が見つけるだろうか。係助詞「や」をうけて、推量「む」は連体形の結び。
女の屋敷から、捜索の者が来て、自分たちを見つけるだろうか、と恐れている。女を故郷に連れて行きたいが、天候が悪く、やむなく足止めされているのである。
4雷さへ:「かみ」はかみなり。雷までも。
雨さへ、困っているのに、雷までもなり出した、ということ。
おどろおそろし:恐ろしい。
2胸を押さへつつ:男は自分の胸を押さえ押さえして。動悸を沈めようとするしぐさ。
慰め暮らす:「くらす」はその日を終わりまで過ごすこと。その日の終わりまで、慰めていた。
4出で立ちける:係助詞「ぞ」を受けて、過去「けり」は連体形で結んでいる。ここまでの一段をしめくくる。
女を故郷に連れて行くことになった、そのマイナスの条件は、風がなお強いこと、プラスの条件は、雨がやんだことと、ここにいると人目にかかる恐れがあること。
あやしき車:男がやっと調達した、粗末な牛車であろう。
1ものから:逆接の接続助詞。
思ひかけぬ道:思いがけない旅。女としては、今更屋敷に戻れないとしても、男の故郷に連れて行かれることになろうとは予想していなかった。都の人にとって、地方に行って暮らすなどということは、とてもつらいのである。
ゆくりなし:思いがけない。
2宮のうち、姫君の御方:仕えてきた御殿の中や、姫君様。
3としごろ:長年。
4本意:(ほい) 本来の望み。
「年ごろの本意」とは、前から望んでいた、女を故郷に連れて行って、妻にしたいという希望。
たどり行く:女を車に乗せ、自分はそばを歩いて行ったのであろう。
2もとの渚:男が故郷の明石から上陸した海岸。そこに自分が使った舟を泊めておいたのだろう。
3さらに・・なし:全く・・ない。
こうして男は、誰にも知られないように、女を京から連れだした。
さし下す:舟を水に浮かべ、出発させる。
過ぎ行く:都から離れて進んで行く。
1川尻:河口。波が静かなので、昔の港は河口のラグーンを利用していた。
沖つ潮風:「沖つ」は「沖の」。「つ」は古い格助詞。瀬戸内海の話だが、沖の海の風、ということ。
2ならはぬ人:海などに出たことのない女。
苦しげにて、・・思ひ惑へる:船酔いで苦しそうで、どうしてよいか分からない。
3衣ひきかづきて:着ていた着物をかぶるのは、寝るときのしぐさ。二人とも船底に寝ている。
4我が住む方:自分が住む明石の浦のあたり。
2葛:(かずら) つる草の総称。松の梢につる草がかかっているのは、あまり見ないようだが。
えもいはず:何ともいえない。
3「かれ見給へ:男のことば。まだ船底に伏せっている女に話しかけた。
あれば:動詞「あり」已然形+接続助詞「ば」。已然形+「ば」だから、・・ので、・・とと訳す。
4ありけるものを・・:種があれば、荒磯にも松が根付く、そのように、愛情があれば、田舎でも二人の生活は成立すると言いたいのだろう。
1苫のひまひまも:「苫」は舟の上に草を編んで作った小屋をさす。それに隙間がいくつも開いていて、朝日が差し込んで来るのである。
はしたなき心地するに:その光で姿を見られてしまうので、女は恥ずかしい。
平安時代の貴族は厚化粧をするし、明るいところで男に姿を見られるのを恥ずかしがった。
3まみ:目元。
をかしげなり:かわいらしい。
今よりは:今自分の故郷に連れて来てからは。
4心のどかに:今日は会えないのではないか、とか心配することなしに。
見るべし:動詞「みる」終止形+可能「べし」終止形。見ることができる。つまり、女を自分の家に置いて、独占することができる。
平安時代の初めまで、母系制が残っていて、男性は女性の家に通った。しかし、氏族の解体に伴って、男性が自分の妻子を庇護することが必要になってきて、男性のもとに妻子が引き取られて暮らすようになった。男性は、確実に自分の血をひいた息子を跡継ぎにするいっぽう、女性も経済的に夫にたよることができるようになったが、その自立性を失ったのである。
1:あとより漕ぎ来る舟:その時、後方から漕いで来る舟が見えたのである。
人にや・・:「あらむ」などが省略。
3寄せぬ:舟を寄せた。
参る:ここでは「たべる」の尊敬語。
4ふし給ひてのみは:船酔いだからと言って、船底に寝てばかりいては。
悪しかんなるものを:形容詞「あし」連体形の「あしかる」の撥音便「あしかん」+推量「なり」連体形+接続助詞「ものを」。悪いでしょうに。
1見も入れず:動詞「みる」連用形+係助詞「も」+動詞「いる」未然形+打消「ず」連用形。複合動詞「みいる」に係助詞「も」がはさまった形。
2醒むなる:動詞「さむ」終止形+伝聞「なり」連体形。醒めると聞いている。
3降りぬ:二人は舟を下りた。
心落ちゐぬ:気持ちが落ち着く。
4ありしさま:男が、今までどのように女に会うため苦労してきたか、というようなこと。
月日へだてしおぽつかなさ:何日も会えないで、心許なかったことなど。
1さまざま思ひ続くることどもの:二人はそれぞれ思いつづけることがいくつも。
これから夫婦として暮らしていくにつけても、二人の心の中では、それぞれ違った思いがつぎつぎにわいてくる、そうした微妙な時間をすごしている。
2多かる:形容詞「おほし」連体形。
貝など拾ふ:土佐日記でも、レクレーションとして貝殻を拾う場面がある。美しい貝をコレクションするのである。貝合(かいあわせ)という遊びもあった。
3荒磯の・・:男の歌。男は、しきりに、困難を経て二人がこれから一緒に夫婦としてここで暮らして行くのだということをアピールする。
波にたゆたふうつせ貝:貝が波にもまれて、中身のない貝殻になって、多くは片側だけになってしまう。
4いもせ:夫婦。
いもせそなふる時もありけり:まれには両側がそろっている貝もあるように、われわれ二人も、世間の荒波にさらされながら、二人そろって夫婦であることだ。
このまれな幸運を大切にして、ここで夫婦として暮らして行こうではないか、という気持ち。
1言へば:男が歌を詠むと。
2そなへぬるいもせ:男の歌の「いもせそなふる」を受けた。返歌は、このように、相手の歌を受け止め、それを切り返す。
あなたは、ここの貝が二枚の貝殻がそろっているように、ここで夫婦二人で末永く暮らすのだ、といったが、私はその言葉をどうしてあてにすることができよう、いやできない。
頼むべき:動詞「たのむ」終止形+適当「べし」連体形。疑問詞「いかが」を受けて、連体形で結んでいる。疑問の形だが、あまり強くない反語。
3空し:中身がない。
この浦の貝(貝殻)は、中身がないと聞いたのだから、あなたの言葉も中身がないと思わざるをえない。
こうした場合、男の歌を素直に受け止めて、いっしょに末永く暮らしましょうと答えるのは、平安時代の貴族としては単純すぎる。疑ってみせるのが、女性のたしなみだった。実際、都を離れた、このような土地で暮らしていけるのか、まして男に捨てられた時、どうすればよいのか、女の不安は大きかったろう。