土佐日記1・解説

作品について

 土佐日記:935年の成立か。紀貫之が土佐の守の任期をおえて、934年12月21日、国司の館を出て、翌年2月16日帰宅するまでの船旅を記録した日記。守の妻である女性の日記という形で、ひらがなを用い、旅行中の見聞や娘を土佐で失った悲しみを歌を交えて書いている。男性貴族が漢文で記していた日記を仮名で書いたという画期的な作品で、その後の女性による日記や物語の創作に道を開いた。

 「土佐日記」は、同じ紀貫之の古今集仮名序、作者不明の「竹取物語」、「伊勢物語」とともに、仮名によって書かれたもっとも古い日本語の作品のひとつである。ここはその有名な冒頭の部分。

 紀貫之:(〜945)古今集の撰者の一人。その仮名序の執筆者と見られ、「土佐日記」とともに、日本人が仮名で日本語を書き表し、仮名で書かれた文学作品をつくりだす道を開いた。

登場人物

 日記の筆者:紀貫之の妻。(実際に日記を書いたのは紀貫之自身だと考えられるが、男性が公式に仮名を使うのははばかられたので、女性に仮託したものと考えられている)

 ある人:筆者である妻から見た紀貫之。930年に土佐守に任命された。

 藤原のときざね:この土地の人で、紀貫之在任中、仕えていた人らしい。送別の宴を開いてくれた。

 八木のやすのり:この地方の豪族であろう。国府に仕えるという関係ではなかったが、送別の宴会を開いてくれた。

 講師:国分寺の住職。都から派遣され、その国の僧尼を管理した人で、送別の宴会を開いてくれた。

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男もすなる終止形に接続する伝聞の助動詞「なり」の連体形がつかわれている。男も書くと聞く。男性貴族は公務の助けに(また、子孫への資料として)漢文で日記を書いていた。そのような場面に女性は立ち会わないものだが、そのように聞いている、ということ。

 日記にきとよませるが、にっきと言ったという説もある。

 女も女である私も。男性である筆者が女性を装っていることは作品についてで述べた。

 とて:格助詞「と」+接続助詞「て」からきたが、一語の格助詞になっていると見る。

2するなり:連体形に接続する断定の助動詞「なり」終止形がつかわれている。「すなる・・するなり」はよい対比なので、文法問題としてよく出題される。「するなり」の言い方には、はじめての仮名文字による日記を創作するという意識が出ていると読めるだろう。

それの年:ぼかした言い方。934年。

 二十日あまり一日:21日。

  和語の数詞は:ひと ふた みつ よつ いつ むつ ななつ やつ ここのつ とを

          とをあまりひと とをあまりふた ・・ はたち

          はたちあまりひと はたちあまりふた ・・ みそ

          みそ(30)以上は よそ いそ むそ ななそ やそ ここのそ もも

          もも(100)以上は ち(千) よろづ(万)

       はたちあまりひとに 対応して、日数には はつかあまりひとひと言ったもの。

 門出す館から出発する

その由その旅中の様子を。この日記が旅日記であるということを言っている。

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ある人:「ある」は連体詞。ある人とぼかしているが、ともに娘の死を悲しんだりする場面があとで出てくるから、夫と考えられる。また、直後の記述から、土佐の守、紀貫之のことと思われる。

 例のことども:国司の最大の仕事は、税を取って、都に送ることだったから、その関係の事務処理。任期中の税の未納分の責任をとらなければならなかった。

解由:新任の国司から任務完了を認めた(以後は自分の責任であることを認めた)解由状。

 住む館:今まで住んでいた国司の公舎。高知県国府村(現南国市)にあった。

船に乗るべき所:高知県大津にあった大津の港。当時の国府には港(国府津)が所属していた。移動や輸送が船にたよっていたからである。ここでは、最初の1泊を大津の港で過ごしたことになるが、自宅を出て、近所で1泊して、そこから出立することは近世に至るまでよく見られた。

4かれこれ知る知らぬ:いろいろな人々が見送りに来た、ということ。動詞「しる」連体形、打消「ず」連体形はともに準体法で、「知っている人」「知らない人」という名詞としてはたらいている。

 比べつる:動詞「くらぶ」は親しくつきあう。完了「つ」連体形は存続(つきあうことが続く)と見たが、完了とする人もいる。

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とかくしつつ:大津の港に運んできた荷物の積み込みなど、手伝ったりしながら。

和泉の国まで:和泉の国にたどりつけば、本州に渡れたことになるから。

 平らかに無事につけますように心静かに願を立てるとする読み方もある。は、神仏に祈願して、無事に果たされたらお礼をすると約束すること。

藤原のときざね:現地で紀貫之の部下だった人らしい。とても守との別れを惜しんでいる。

 船路なれど自分たちの旅は馬に乗らない船旅なのに馬のはなむけはかつて、旅の出立にあたって、乗馬の鼻を旅立ちの方向に向けて、旅の安全を祈ったことから、送別の宴、餞別の意味になった。ここでは、船旅なのに馬のはなむけをしたとおかしがっている。この種の言葉のしゃれを土佐日記の筆者はひんぱんにもてあそぶ。こうした言葉のしゃれを喜ぶのは、当時の人の流行だったらしく、古今和歌集にもしゃれ(掛詞)を使った歌がたくさん選ばれている。

 馬のはなむけす:送別の宴をしてくれたことを言っている。

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1上中下:すべての人が、ということ。

 酔ひ飽きて:送別の酒にすっかり酔って。動詞「飽く」は「すっかり・・」「いやというほど・・」という意味を付け加える。

 いとあやしく:以下のことが不思議だ、ということ。上の事柄をうけて、すっかり酔ってたいへん見苦しく、と解釈する人もいる。

 潮海のほとりにて塩のきいた潮海のそばで。「しほうみ」は「みずうみ」と対になる単語。

 あざれあへり:動詞「あふ」は「・・しあう」。「あざる(戯る)」は「ふざける」だが、「魚肉が腐る」という意味の「あざる」と掛けている。塩のきいた海のそばだから、腐る(あざる)はずがないのに、ふざけている(あざれあふ)、というしゃれ。土佐日記で使われているしゃれの第2弾。

 3八木のやすのり:この地方の豪族であろう。国府に仕えるという関係ではなかったが、送別の宴会を開いてくれた。

者にもあらざ’なり:基本的には「者なり」という述語。名詞を述語として使うために、断定「なり」を使っている。この否定形が「者ならず」だが、しばしば補助動詞「あり」を使って、「者あらず」となる。このとき「」は断定「なり」の連用形とされる。

  これに伝聞推定「なり」が接続して、女性的な断定をさけた言い方にしている。この「なり」は終止形につくが、ラ変には連体形につくから、「者あらざるなり」となる。このとき打消「ず」の連体形「ざる」の「る」が撥音便「ん」となり、表記されなかったため「者あらなり」となったのが、本文の形。テキストでは、表記されないが「」と読まれることを「’」で表現している。

 これぞそれなのにこの人が

 たたはしきやうにて律儀に立派に。そんな義理もないのに、いかめしく厳かに送別の宴を張ってくれたことに感動している。

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守がら:国守紀貫之の人柄。ちょっと自慢した言い方か。

 守がらにやあらむ:断定「なり」をつかった「守がらなり」が出発点で、さらに推量「」がついて「守がらなら」となる。ちょっと疑問の気持ちをそえるため、これに係助詞「や」をつけたい。そこで「なり」を連用形「」にして、補助動詞「あり」を使っている。こうして「守がらあら」ができたが、係「や」があるから、最後の「」は連体形の結びである。

今は・・:国司が任解けて帰京してしまう時には、今は顔出しする必要がない、ということ。

見えざ’なる:4ページ4行とおなじく、推量「なり」が打消「ず」の連体形「ざる」についたが、「る」が撥音便「ん」となり、表記されない形。

 心ある者はこの人のように真心のある人は

恥ぢずに世間体にかまわずに。まわりの人から、おべっかを使っていると言われようと、かまわずに、ということか。

 褒むるしもあら:これも補助動詞がでてくる例で、「ほむるなり」−「ほむるならず」に副助詞「しも」をつけるため、補助動詞「あり」があらわれ、断定「なり」が連用形「」になっている。

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講師:国府のそばには国分寺と国の社があった。その国分寺の住職。都から派遣され、その国の僧尼を管理した。

 出でませり:「いでます」で尊敬動詞とみたが、「ます」を尊敬の助動詞または補助動詞と見ることもできる。

童まで:子供が飲酒したことは、江戸時代にも見られた。

足は十文字に踏みて千鳥足になって。文字をひとつも知らない者たちまで足は十文字に歩いて、というしゃれ。土佐日記のしゃれの第3番目。

  土佐日記の書き出しで、女性である(ということになっている)筆者が、男性のまねをして(男性に対抗して)日記を書くと宣言し、女性の目から土地の人々に別れを惜しまれる守のことと、たてつづけの別れの宴で酔っぱらってしまった男達の姿を描いている。

  土佐の国(高知県)は今でも浴びるほど酒を飲む習慣があるらしく、料亭には大小の便器と並んで、吐き戻し用の便器も備えてあって、(トイレに入った女性によると)女性の方にも同じ設備がしてあるそうである。明るい南国の人々と、あたたかい紀貫之の人間的な交流が描かれているといえるだろう。