その七二段、おもに人間関係における、めったにないものを列挙した類集的章段。
1ありがたき:「あることが難い」ということから、めったにない。
舅:つまの父。当時は婿入り婚であったから、男は妻の家に通った。妻の父母は婿をもてなし、毎晩通って来ることを期待したが、もちろんそれほどは来てくれないことが多い(他にも妻がいることが普通だったから)。当然、舅から恨まれもするのである。
姑:夫の母。中世からの嫁入り婚の時代ほどでなくても、息子が婿として通っている妻の家での待遇について母としていろいろ不満が出るのが普通だろう。
2銀の毛抜き:当時の女性は毛抜きで眉の毛を抜いた(今でもいるけれど)。多くは鉄製の毛抜きを使ったようだが、銀製は細工がむずかしかったのだろうか。
従者:召使い。主人が自宅にいる時は、用事があるまで控えているし、外出するときはお供する。とくに主人が女を口説きに行くときは、一晩中、待たされる。文句も言いたくなるだろう。
3つゆの:副詞「つゆ」は打消の語とともにすこしも・・ない。これに格助詞「の」がついて連体的に使われている。
なき:形容詞「なし」の連体形。準体法なので、「この・もの・とき・・」などの名詞を補って訳すが、ここでは「ひと」。4の「なき」もおなじ。
1同じ所に住む人:作者もそうだが、女房と呼ばれた上級の侍女は、主人の家で控え室(房)を与えられた。休暇の時以外は、かなりの期間、ここに寝泊まりして主人に仕える。その女房仲間で、ということ。1室を二人で共有し、一人が勤めている間、もう一人が休息していたようだが、たとえ仲が良くても、いまのルームメイトの間で起きるのと同じような問題が生じたのだろう。
2つひに見えぬ:遠慮し、我慢をしていたとしても、最後までエゴがむき出しにならないことは。
4書き写すに:当時は印刷がないから、読みたい物語や歌集は、原本を借りて、自分で(または高額の謝礼をもって字の上手な人に頼んで)書き写した。
このように昔の本は筆写によって伝えられたので、よほど重要なものか、人気のあるもの以外は失われたしまった。また、原本はなくなってしまうし、筆写されつづけても、その間、誤字脱字、写し手の勝手な改竄が積み重なってしまう。それを復元するのは学問の一つの分野になっている。
本に墨つけぬ:書き写すときにどうしても原本を汚してしまう。筆者も自分の貸した本を汚されたり、借りたものを汚した経験があるのだろう。
1きたなげになるめれ:墨をつけてきたなくなるようだよ。推量「めり」の已然形がついているので、断定はしていないが、当然自分の体験があることを推量の形で言っているのは、婉曲にちかい用法ではないか。同時代の人が読むのだから、特定のケースのことだとして思われると困るので、ぼかしたのだろうか。
3男、女をば言はじ:はじめうまくいっていた男女の仲が最後までうまくいかないのは当然だから言うのはよそう、ということ。筆者の体験から言っているのだろう。
契り深くて:同じ職場にいるなど、縁が深くて。
4人の:格助詞「の」の同格の用法。「・・人」と「末まで仲よき人」は同一のもの。
かたし:形容詞「かたし」は難しいということだが、ここでは「ありがたし」の意味で使っている。
この章段では、「めったにないもの」として、
・・婿。
・・嫁の君。
・・毛抜き。
・・従者。
つゆの・・。
かたち・・。
(同じ・・かたけれ。)
物語・・。(よき・・。)
(男・・かたし。)
を列挙している。類集的章段として、基本的には名詞を並べるが、つゆの・・。かたち・・。物語・・。は準体法の連体形を使っている。(同じ・・かたけれ。) (男・・かたし。)は文のかたちで述べている。(よき・・。)は付加的な説明の文である。