仁和寺に解説

作品と筆者について

 兼好法師の随筆「徒然草」の第52段。

 

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仁和寺:京都御室にある寺。

 法師:この寺院の正規の僧。子供の時から修行を始め、かなりの年まで、世間のことなど知らずに過ごしてきた人である。これに対して、兼好は、中年になって出家して、この法師のように正規の僧にはなれず、庵で暮らしている人だが、世間のことははるかに知っている。

 石清水石清水八幡宮。京都近郊の男山山上にあって、京都の人たちの信仰を集めた。

心憂く覚えて:誰しもがお参りしたことがあるのに、自分は行っていないから。

 思ひ立ちて:周到な準備をしたわけでもなく。

 まうでけり:「まうづ」は「行く」の謙譲語。

 極楽寺・高良など:当時、大きな寺社は、付属の神社や寺を周辺に従えていた。これらも、石清水八幡宮に付属する寺院や神社。

かばかりと心得て:本体に参詣していないのに、これで済んだと思ってしまったのである。

 帰りにけり:動詞「かへる」に完了の「ぬ」と過去の「けり」がついている。帰って、今、仁和寺にいるということ。

かたへの人:同じ仁和寺の僧。

 果たし侍りぬ:「はべり」は丁寧の補助動詞。聞き手であるかたへの人への敬語。本人は満足して、自慢しようとしている。

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尊くこそおはしけれ:神社が尊かったことを言う。「おはす」は尊敬の補助動詞で、神様への敬語。強調の係り「こそ」を使ったので、過去「けり」が已然形で結んでいる。全体として強調文。

山へ登りしは:もちろん、他の人々は山上の石清水本体を目指して登っていった。

 何ごとか ありけむ:「一体山の上に」を補う。

神へ参るこそ本意なれ:「まゐる」は連体形・準体法で名詞になっている。「神に参詣すること」という主語である。名詞「本意」に断定「なり」がついて述語になっている。「神に参詣するのが本来の目的であるから、私は山上まで寄り道しなかった」と自慢しているのである。これを強調の係り「こそ」をつけて、「なり」を已然形で結んで、全体を強調文としている。ますます、この僧の自己満足の姿が明らかになる。

とぞ言ひける:ここも強調の係り「ぞ」と「けり」が已然形で結ぶ、強調文になっている。筆者のため息が聞こえそうな文である。

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少しのことにも:「だからこういう失敗をしないためにも」を補う。この文が筆者による教訓。

 先達:先導者。指導者。この場合は、この僧を先導してくれる人。または、陥りそうな誤りをあらかじめ注意して、山上まで登るのですよと教えてくれる人。

 あらまほしき:動詞「あり」未然形に希望の助動詞「まほし」がついている。