兼好法師の随筆「徒然草」の第一三七段
1花は盛りに:「をのみ見る」につづく。「花は満開の時だけに」の意味。
2かは:反語。
雨に向かひて:降っている雨に向かって。源順の詩「雨に対ひて月を恋ふ」を念頭に置いている。
3たれこめて:簾を垂らして部屋にこもって。「古今和歌集」の「たれこめて春のゆくへも知らぬまに待ちし桜もうつろひにけり」を念頭に置いている。
春のゆくへ:春が移り変わっていく様子。
4なほ:満開の花や満月を見るのに比べて、やはり、という意味。筆者は、盛りを過ぎた終わりの頃(またはこれから盛りに向かう初めの頃)の風情がまさっていると考えている。
咲きぬべきほど:梢が赤らんで、花の蕾もふくらんでくる頃。
詞書:ことばがき。和歌集で、和歌の前にあって、制作の事情や動機を記した言葉。
1多けれ:強調の係り「こそ」をうけて、形容詞「おほし」の已然形で結んでいる。強調文。
2罷れ:謙譲の動詞「まかる」の已然形。
早く:「すでに」の意味によく使われる。
散り過ぎにければ・・:「残念に思って、以下の歌を詠んだ」という意味。
3罷らで・・:「花見に参りませんでしたので、以下の歌を詠んだ」という意味。
花を見て・・:「満開の花を見て、以下の歌を詠んだ」という意味。
4言へるに劣れることかは:そのような詞書のあとに載せられた歌に劣っているか、いや、いない、ということ。
1慕ふならひ:終わっていくものを惜しむ人間の性情は、ということ。人間は誰しも、そのような性質を持っているが、中にはへそまがりがいて、と次に続く。
3言ふめる:断定したいところを、推量「めり」を使って遠回しに言った。「人ぞ」の強調の係り「ぞ」をうけて、「めり」は連体形の結びとなっている。
4よろづのことも:初めと終わりが趣深いということは、自然に限らず、いろいろなことに言えると、一般化している。
をかしけれ:強調の係り「こそ」をうけて、形容詞「をかし」の已然形で結んでいる。
1逢ひ見る:「みる」は連体形・準体法で、名詞となっている。「逢って見ること」が直訳。
逢はでやみにし:最後まで会えなかった。ここから、「昔をしのぶ」まで、いずれも満たされない恋愛の例。
「逢はでやみにし憂さを思ひ」は「あだなる契りをかこち」と対句。
3「遠き雲居を思ひやり」は「遠き雲居を思ひやり」と対句。
4色好む:恋の趣を理解する。
1言はめ:強調の係り「こそ」をうけて、推量「む」が已然形の結びになっている。ここまで、自然ばかりでなく、人事(恋愛)も、満たされないものが趣深いとしている。
2望月のくまなきを:ふたたび自然について。この部分は、白居易の詩句「三五夜中新月色、二千里外故人心」を念頭に置いている。
くまなき:形容詞「くまなし」の連体形・準体法。名詞として「美しく輝いているの」と訳した。
3待ち出でたる:完了「たり」は動作が続いているということで「存続」の用法と考える。連体形・・準体法で、名詞として「待って出てきた月」と訳した。
4見えたる:上と同様「見えている月」と訳せる。「影」(月の光)と並んでいる。
「深き山の杉の梢に見えたる木の間の影」は「うちしぐれたるむら雲隠れのほど」と対句。
1むら雲隠れ:月がむら雲に隠れること。
2椎柴・白樫:シイの木やシラカシの木はいずれも照葉樹で、葉が堅くてかてかしている。その葉の上に月の光が反射するのである。
きらめきたる:この「たる」も存続、連体形・準体法。「きらめいている月の光」と訳した。
3友もがな:「…がほしい」という言い方。共通の美意識を持つ友人がいたら、いっしょに感動できるのに、ということ。
4都恋しう:都にはそういう友人がいるから。この時、都に対して筆者は、都の郊外にいたのか、都の外の田舎にいたのか。
覚ゆれ:強調の係り「こそ」をうけて、動詞「おぼゆ」の已然形で結んでいる。
1すべて:ここから一般論、結論。
目にて見る:盛りを見るとは、目で見ること。まだ起きていない、すでに終わってしまったものを楽しむのは、想像力を働かせること。家を出なくても、部屋のなかでも、花や月を想像できる。それがすばらしいのだ。
「春は家を立ち去らでも」は「月の夜は閨の内ながらも思へる」と対句。
2思へる:完了「り」の存続の用法、連体形・準体法で、「思っているの」が直訳、「想像するの」と訳した。
3頼もしう:他のものはいらない、それで十分だ、ということか。
よき人:(古典の)教養があって、(平安時代の貴族のように)上品な人。筆者の理想。
4ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり:まさに平安時代の貴族(たとえば光源氏)の姿。
1片田舎の人:(都の)よき人の反対。
2もて興ずれ:強調の係り「こそ」をうけて、動詞「もてきようず」が已然形で結んでいる。
3連歌して:連歌の会をして。今なら、花見に大勢でカラオケをするようなもの。
4「泉には手・足さし浸して」は「雪には降り立ちて跡つけなど」と対句的。
筆者の考えは、(3)の「よろづのことも、始め終はりこそをかしけれ。」に要約されている。これを「無常観(何者も永遠に同じではない)」に引きつけるのはどうか。想像の余地があるところに、よりレベルの高い美があると主張しているだけではないか。想像の余地とは、「余情」とも言うが、平安時代の貴族の美意識を学び、さらに中世的な思考によって深めたのが、筆者の美意識ではなかったか。