兼好法師の随筆「徒然草」の序段。
「徒然草」は中世の随筆で、243段の自然や人事に対する批評・見聞から成る。
筆者は中世の人であるから、中世語で話していたと考えられるが、古典をよく学習し、「徒然草」の文章はお手本となるような古文(平安時代の文章語)で書かれている。従って、平安時代の人のような破格な文もなく、古文の入門としてふさわしい内容と文章であるということになる。もちろん、丁寧語の多用など、中世語の特徴も現れていて、「徒然草」の文章は、文語(平安時代の文章語をまねた、中世以降の文章語)ということになる。
この序段は、いかにも随筆らしい執筆の動機が述べられているが、有名な割にあまりすっきり理解できない。「あやしうこそものぐるほしけれ」というのは、そんなに大げさな心理状態を述べているのではなく、昔の人の通例である「謙遜」なのであろう。「これから読んでいただくのは、私が暇にまかせて書いた、つまらぬものです」といった内容なのではないか。
兼好法師。昔は「吉田兼好」と覚えたものだが、「吉田」と称するのは根拠がないとして、単に「兼好法師」とする教科書が増えている。
30歳ぐらいまでは、武士として朝廷に仕えたらしく、その後出家して「兼好」と称した。一般にこうした経歴の法師は、寺院に属することをせず、京都近郊に庵を結んで、念仏や芸術などに専念する。(寺院も含めた)世間から離れて暮らすので、隠者とも言われ、真剣に自分の救済や芸術を追究しようとする人の存在形態だった。この名残は江戸時代まで続き、学問・芸術をはじめ、医者など階級社会からはみ出た人々はなんとなく坊主らしい格好をし、その住処を「何々庵」と称していた。
兼好も、何よりも和歌の世界に生きようとしたもので、平安時代の古典の研究は当然だったし、彼の随筆も「枕草子」を意識していたはずである。しかし、感覚的、情緒的な「枕草子」に比べ、論理的、倫理的、宗教的、思索的な所が見えるのは、時代が中世であり、作者が男性でもあることからだろう。
1「することもなく、手持ち無沙汰」なのは、筆者が隠者だから。貴族の一員としての仕事もないし、寺院のメンバーとしての義務もない。生活は、実家の仕送りと歌の教授の謝礼でまかなえるような質素なものだったのだろう。
硯に向かひて:筆記机の前にすわって、ということ。
3あやしうこそ:形容詞「あやし」の連用形「あやしく」のウ音便に係助詞「こそ」がついた。
ものぐるほしけれ:形容詞「ものぐるほし」の已然形。前の係「こそ」の結びになっている。
ものぐるおしいのは、自分の心とも、文章の内容ともとれる。