十六夜日記3解説

作品について

十六夜日記:(いざよいにっき)

登場人物

 筆者:阿仏尼(あぶつに)

 父の朝臣:継父、平度繁(たいらのもりしげ)。ともに遠江国に行ったことがある。

1ページ

1清見が関:静岡県清水市興津にあった古関。清見(せいけん)寺がその跡といわれる。更級日記には、関所の建物がたくさんあったと記しているが、阿仏尼の頃は名前だけ残っていた。また、更級日記の作者は、富士の噴煙も見ている。

 岩越す波の:清見が関のそばの清見潟で、波が岩にうち寄せ、乗り越える様子を詠んだいくつかの歌がある。

2白き衣をうち着する:岩に白波がくだけるのを、岩に白い着物を打ちかけて着せるようだと連想している。次の歌を導き出すための記述。

3波のぬれ衣いく重ね着つ:岩よ、お前は何度も何度も白波をかぶって濡れているが、何度そうやって繰り返したのか、ということだが、「ぬれ衣」は「無実の罪」ということだから、いままで(この旅や訴訟の件で)いわれのない非難をあびてきた自分のことを詠っている。

  私はこの岩のように、いわれのない(と自分では思っている)非難を何度も浴びてきたことだ、という意味の歌。「重ね」「着つ」は「衣」の縁語

   ぬれ衣は、歌ではもっぱら恋のぬれ衣(関係していないのにそう世間に見られる)をいうので、ここでもそうだという説もある。

2ページ

1とどまりぬ:宿をとった

2しわざにや:「あらむ」などが省略。

 くゆりかかる煙:海に近い里なので、 魚を干物にしたりする煙であろう。製塩のため海藻を焼くケースもあるが、それは歌でよく詠まれる風情あるものとされていたので、それではないだろう。

3夜の宿なまぐさし:平安時代から愛読された、白居易の詩の一節を意訳している。

 人の言葉:白居易の詩の一節

4波ただ枕に立ち騒ぐ:海岸に近い宿なので、波の音がひたすら枕元で立ち騒ぐようだ、ということ。源氏物語「明石」にも似たような表現がある。

3ページ

1ならはずよ:ここで詠んだ歌。経験したことがないことだ。初句で「。」を打てるから、初句切れ

2かかる:荒磯波が掛かると、副「かく」+動「あり」連体形の「かかる」(こんな)の掛詞

  「よそに聞きこし清見潟あら磯波のかかる寝覚めは」と「ならはずよ」は倒置。「・・こんな寝覚めは経験したことがないことだ。」

3煙も立たず:「竹取物語」(900年ころ)や「更級日記」(1040年ごろ旅をする)では、噴煙について述べているが、この時代(1280年ころ)は噴煙が見られなくなっていたらしい。筆者も若い頃には、噴煙を見たと言っている(4ページ1)。

 父の朝臣:継父、平度繁(たいらのもりしげ)。「朝臣」(あそん)は、朝廷に使える四位、五位の人への敬称。

 誘はれて:父が任国に行くのに同行して、遠江国(とおとうみのくに)まで行ったことをさす。

4いかに鳴海の浦なれば:筆者の若い頃の著作「うたたねの記」にある歌。全体は、「これや さは。 いかに 鳴海の 浦なれば、思ふ 方には 遠ざかるらむ」(ああ、ここがそこか。そういうわけで(成る身(将来どうなる自分なのか)という名を持つ)鳴海であるので、私も恋しく思う京の方からは遠ざかって(旅を続けて)行くのだろう)

  まだ若かった自分は、旅の身空と、これからどのような結婚をし、どのように生きて行くのだろうということをこの歌に詠ったわけだが、結婚もし、子供のために老年になってこのような旅をしている自分と比較すると、感慨をもたざるをえない。そのことが、このあとの歌を引き出す。

 遠江:(とほつあふみ)のち、(とほたふみとおとうみ)) 都に近い湖、「近つ淡海」(琵琶湖)に対し、都に遠い湖、「遠つ淡海」(浜名湖)のある国の意。現在は、静岡県の一部。遠州とも言った。

4ページ

1見しかば:見たので。つまり、行ったことがあるので

 見えしものを:3ページ4でふれた「うたたねの記」に見たと述べている。とすれば、富士の噴煙がいつから見えなくなったかということの貴重な証言になる(もっとも、見えたり、見えなかったりを繰り返して、だんだん、見えなくなったのかもしれないが)。

2絶えし:煙が絶えてしまったの?

 さだかに答ふる人だになし:いついつから煙が出なくなりましたと、はっきり答える人さえいない。現地の人は生活に忙しくて、気にもとめていなかったというわけ。

4誰が方になびき果ててか:誰の方にすっかりなびききってのことであるのか。自分の将来が見えなかった「いかに鳴海の浦なれば」の歌(3ページ4)の頃と比較して、結婚もし、子供も大きくなった今を振り返っている。

  「なびき」は、煙がなびくと、恋人に従う掛詞。また、「なびく」は「煙」の縁語

5ページ

1見えずなるらむ:見えなくなるのだろうか。推量「らむ」は「なびき果ててか」の係助詞「か」の結びとなって、「連体形」と解釈される。

  古来、富士の煙は、恋にこがれる胸の思いの火から立つものとされていた。その煙が見えないのは、誰かに心を寄せきって、恋の思いがすっかりなくなったからであろうか、という意味。あこがれに満ちた若い頃の自分と、夫の死後、尼になって再婚の意志のないことを明らかにした現在の自分を比較しているのであろう。

  このように東海道を旅して、筆者は鎌倉にたどり着き、そこでの滞在の様子を書きとどめている。