更級日記1・解説

作品について

 更級日記(さらしなにっき):菅原孝標女が50歳すぎてから書いた自伝的な日記。13歳のころ、父の任地である上総国を立って、都に戻る旅から書き始め、40年あまりの生活を回想している。少女のころの夢は現実にくだけていき、残る希望は極楽浄土に行くことだが、なおみずみずしいロマンティックな精神を失わない。現在は親族に養われ、更級の伝説にある姥捨てのように、捨てられてもしかたのない境遇である、という末尾の歌から、更級日記と名付けられた。1060年ごろの成立。

登場人物

 生ひいでたる人:筆者。菅原孝標女(すがわら たかすえの むすめ):本名が伝わらないので、父の名で呼ばれる。父は菅原道真の子孫で、母の姉に右大将道綱の母がいる。10歳で父に従って上総の国に行き、13歳で都に戻る。あこがれていた源氏物語を耽読するが、宮仕えも気がすすまず、結婚したが夫に先立たれた。52歳の現在、信仰に生きるより生き甲斐はなく、自らの魂の遍歴を「更級日記」に書き記した。

 姉:帰京後、筆者が17歳のとき、二人の子供を残して死んだ。

 まま母:高階(たかしな)成行(しげゆき)の女(むすめ)。上総(かずさの)大輔(たいふ)という名で知られた歌人。のち、父と離婚。

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1東路の道の果て:「あづま」は逢坂の関以東。「東路」はしたがって、東海道。「道の果て」とは常陸(ひたち)国(今の茨城県)。古今集にある紀友則の歌を念頭においている。

 なほ奥つ方:常陸国より奥の国、すなわち上総(かみつふさ、かずさ)国(今の千葉県)。東京湾に沿って行くことは困難だったらしく、遠回りして千葉に行ったことから、このように意識されていた。

 生ひいでたる人:そこで成長した人、すなわち筆者である私。筆者は10歳で父に従って上総の国に行き、13歳で都に戻った。52歳の今、かつての自分を客観的に「人」と表現している。

2いかばかりかはあやしかりけむ:当時の自分は知らなかったが、どれほど田舎じみていただろうか、と自分を卑下している。都の貴族たちが、都以外の田舎を軽蔑したことははなはだしかった。それだけ文化的落差も極端だったが、そうした生活はすべて田舎のひとびとからの収奪によってまかなわれ、そのために都から派遣されたのが国司(国の守をはじめとする役人)だった。

 過去のことについての推量だから、過去推量の助動詞「けむ」が使われている。

3いかに思ひ始めけることにか:どうしてそんなことを思い始めたことか、という挿入句。「ことにか」のあとに「あらむ」などが省略。文化的なものを知らずに育った私なのに・・という気持ち。これは、あとで分かるように、いっしょに生活していた継母や姉の影響。

4物語といふもの:「源氏物語」を代表とする、中古文学のジャンルとしての物語類。

 あんなるを:動詞「あり」連体形「ある」の撥音便+伝聞「なり」連体形(準体法)。継母や姉から聞いたことだから、伝聞の助動詞「なり」を使っている。準体法に格助詞「を」がついているので、直訳すれば、「あると聞いているのを」。

 いかで見ばや:「いかで」はなんとかして。願望(希望)の終助詞「ばや」がついて、見たい

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1思ひつつ:接続助詞「つつ」は繰り返し。何度も思って

 昼ま、宵居:学校もない時代で、昼間も夜もひまだった。「宵居」は夕方から寝るまでの団欒の時間。そうした時間、女たちは都の話などをして時間をつぶしていたのである。

 姉・まま母などやうの人々:「土佐日記」を見てもわかるが、国守は妻子を連れて赴任した。また、現地でたよりになる一族のものを引き連れて行ったので、その家族もついてきた。みな、生活のためだが、筆者の父は、娘たちと、複数の妻の一人を連れて赴任したらしい。その妻は、筆者にとっては実の母ではなかったようだが、仲はよかったらしく、帰京後も父と離婚したこの継母との離別を惜しんでいる。姉は、帰京後、筆者が17歳のとき、子供を残して死んだ。この時は、都からやってきた、姉や継母や、一族の女たちが筆者と生活していたのである。

 光源氏のあるやう:「源氏物語」の主人公の光源氏の様子、その美しさや言動。

3ところどころ語る:かつて読んだり、人が朗読するのを聞いたりしたことを、あちこち話してくれるのを

 ゆかしさ:知りたいと思う気持ち。当時の上総国には、国守の屋敷のも物語がなかったのである。

4そらにいかでかおぼえ語らむ:姉や継母などが本を見ないで、暗唱して語ることが、どうしてできようか、できない。「いかでか」は反語を表す。和歌などは、よく、暗唱されたが、長大な物語は不可能である。

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1いみじく心もとなきままに:物語を読みたいのに、できなくて、とても焦燥感にかられて

 等身に薬師仏を作りて:等身大の薬師仏を作って。「薬師仏」は「薬師如来」の仏像で、これを礼拝すると、病気が治り、現世の利益が得られる。貴族はしばしば自宅に信仰する仏像を造らせて、安置していた。造らせたのは、もちろん、父であったろうが、家族もそれを礼拝し、自分の願いを祈ったのである。「等身」とは、立ったら願主または人の背丈となるであろうという大きさで、像は座った姿をしていることが多いが、このばあいは、立像であったらしい(5ページ2)。

2人まにみそかに入りつつ:他の家族が仏間にいない時をねらって、こっそり何度も入って。接続詞「つつ」は繰り返し。仏教では、物語のような世俗の娯楽に時間を消費することを嫌う。家族に知れたら、非難されるので。これを書いている現在の筆者の心境としても、うしろめたいものがあるのだろう。

3上げたまひて:上京させてくださって。尊敬の補助動詞「たまふ」は仏に対する敬意。

 さぶらふなる:ございますそうでありますものを。丁寧動詞「さぶらふ」は仏に対する敬意。伝聞の助動詞「なり」は、他人から聞いたことだから。これが連体形であるので、準体法と見て、「・・もの」と解釈した。筆者が京にいた自分は、まだ、子供でそうしたものがあることを知らなかったのであろう。

4見せたまへ:尊敬の補助動詞「たまふ」の命令形が使われている。仏に対する敬意をもって、頼んでいる。

 身を捨てて額をつき:もっとも熱心な祈り方。ひれ伏し、また、額を床につける。

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1祈り申す:謙譲の補助動詞「申す」は仏に対する敬意。

 十三になる年:私が十三歳になる年。1020年9月のこと。

 上らむとて:父の任期も終わって上京しようということになって。

 いまたち:地名であろうが、不明。国司の館からいったん出立して、ここに移った。昔は旅立ちは自宅からではなく、別の所に移ってからのことが多かったようだ。国司の館は、新任者に譲ったのかもしれない。

3年ごろ遊び慣れつる所:父の任期の4年ほどを生活し、すっかりなじんだ国司館を。国司館を出立するときの話に戻り、くわしく述べている。古文によくある叙述の仕方。

 こぼち散らして:自分たちが用意した簾やカーテン類を取り外して、外からまるみえの状態にしてしまって

4すごく霧りわたりたるに:一面に霧がたちこめて、いかにも寂しい気分になったときに。形容詞「すごし」は寂しい気分・状態をいう。

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1車:京なら牛車だが、ここでは人が引っ張る手車であろう。これに女たちが乗って、国司の館から「いまたち」という所に移るのである。

 人まには参りつつ、額をつき薬師仏:3ページ1の仏像。自分のしたことだから、直接体験の過去「」の連体形が使ってある。 「参り」は動詞「行く」の謙譲語で、仏に対する敬意。

2立ちたまへる:取り残されて、仏間に立っていらっしゃるのを。「たまへ」は尊敬の補助動詞で、仏に対する敬意。仏像は運べないので、置いていったものか。

 見捨てたてまつる:あとに置いていってしまうのである。「たてまつる」は謙譲の補助動詞で、仏に対する敬意。

3うち泣かれぬ:「れ」は自発の助動詞「る」の連用形。自然とそうなる、そうせずにはいられない。少女の感傷とはいえ、物心のついたこの土地を出発して、二度と戻ることはない。