もののあはれ(源氏物語玉の小櫛)・解説

作品について

源氏物語玉の小櫛: (げんじものがたり たまの おぐし)本居宣長の著書。1799年刊。「源氏物語」を道徳的観点から批判する従来の説に対して、「もののあはれ」という文学独自の基準から見るべきだとし、また、全巻にわたって語句の注釈をしたもの。

登場人物

 源氏の君:光源氏。「源氏物語」の主人公。容姿、言語、学問教養、そして魅惑的な体臭によって、女ばかりでなく男もその魅力の虜にし、庶民も仏の再来ではないかとあがめさせる存在。紫の上を最愛の女性としながらも、人妻である空蝉、兄帝に仕えた朧月夜、父帝の后であり、自分の義理の母である藤壺に思いを寄せるなど、当時としても許されない行為を犯した。

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1もののあはれ:物事にふれて起こる人間の純粋な感動。「あはれ」と同じ。

 もののあはれを知る:読者が物語を読んで、そのような感動を得ること。

 旨:(むね)事の趣。趣意。意味。意見。などの意味があるが、ここでは物語の本質、物語が作られ、享受される意味。

2筋:(すぢ(すじ))血統。地位。道理。性分。方式。趣向。などの意味があるが、ここでは物語の構成・進行にあたっての工夫。どんな主人公が、どんな状況で、どんなことをするか。

 儒仏の教へ:儒教と仏教。どちらも封建時代のイデオロギーとして人々を縛っていた。

  儒教の立場からは、「源氏物語」は男女のみだらな行いを書いたものとして非難されることがあった。

  仏教の立場からは、このようなフィクションを作ったり、楽しんだりすることは、真理を失い、地獄に堕ちることであった。

  本居宣長は、日本古来の精神を重んじる立場から、このような外来の思想・宗教をそれほど重視しなかった。その意味でもっとも重視したのは、「古事記」に見られるような日本人本来の心のあり方であった。そうした観点から「源氏物語」を見直すことによって、文学の普遍的な価値に気づいたのである。

3そは:儒教や仏教の教え(それはそれとして尊いものだが)に反したことが書かれていること、その理由は。

 まづ・・:以下、人間の感動と理性的判断とは一致しないことがあるからだ、と述べていく。

 善悪邪正さまざま:人間が感動する対象は、善いこともあれば、悪いこともある、と指摘する。

4理に違へること:道理に反すること、つまり悪いこと。

  儒教や仏教の教えに反するようなことに感動するのはよくだいのだが、ということ。世間の非難をそれなりに認めておく。

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1情:ここでは本能的な感情や欲望

 我ながら:代名詞「われ」+接尾辞。

 心:ここでは理性的な心のはたらき

  心にも任せぬこと:理性的な判断に従わないこと。本能的な感情や欲望が、理性的な心を負かしてしまうこと。

2忍び難き節ありて:本能的な感情や欲望を押さえきれない時があって。

  以下に挙げてある、理性や道徳では許されない行為:

   空蝉の君:源氏が人妻である空蝉の寝所に忍んで、契りを結んだこと。

   朧月夜の君:源氏が兄帝の婚約者だった朧月夜と入内前に関係し、後、宮中に入っても、密会を続けたこと。

   藤壺の中宮:源氏が、父帝の后であり、自分の義理の母である藤壺に思いを寄せ、御所に忍んで息子(後の冷泉帝)を産ませたこと。

 感ずることある:それが読者に利害や道徳にとらわれない感動を与えることがある。

4会ひ給へるは:動詞「あふ」連用形+尊敬の補助動詞「たまふ」已然形+係助詞「は」。尊敬は、筆者の源氏に対する敬意。

 世に上もなきいみじき不義悪行:これ以上考えられないほどの不義であり、悪行である。

  仏教では、世間で認められている愛情でも、修行を妨げるものとして非難するし、まして、儒教は(中国の社会制度の要請からもあって)義理の母や兄の妻に手を出すことは絶対のタブーである。大家族制の中国では、義理の母や兄嫁によこしまな思いを抱く者は許されないし、民間小説でもそうした悪者はみな罰せられる結末になる。

  いっぽう、日本の家族制度はゆるくて、従兄弟同士や叔父・姪の結婚を認める。源氏物語以降、貴族や天皇で源氏のこうした行為をまねる者が出たが、江戸時代に至ってついに死をもって罰せられている。

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1ほかにいかばかりの善きことあらんにても:悪行のほかにどれほどの善行があるとしても

 光源氏は、容姿、言語、学問教養、そして魅惑的な体臭によって、女ばかりでなく男もその魅力の虜にし、庶民も仏の再来ではないかとあがめさせる存在だった。

2善き人とは:源氏の君を善人であるとは

3その間の:そうした相手との恋愛交渉の

 もののあはれの深き方:読者を感動させることの深い側面を

    空蝉の場合は、過ちを悔い、源氏に惹かれつつも、再度の交わりを拒んだ点か。

    朧月夜の場合は、密会が露見して、源氏が須磨に退去することになり、多くの愛人とあわれ深い別れの場面を演じたことか。

    藤壺の場合は、両者に深い罪の自責を与え、生まれた子も含めて、罪の報いとも言うべき宿命に捕らわれていったこと。

4善き人の本:善人の手本

  源氏が、空蝉や末摘花のような不遇な女性を見捨てなかったこと。また、不運な兄帝に真心をもって接したこと。さらに、亡き父帝に心からすまなく思い、自分が正妻の女三の宮の不義を知ったとき、ひたすら耐えてことを荒立てなかったこと。

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1善きことの限り:3ページ1で述べたようなあらゆる美点。

 物語の大旨:源氏物語のもっとも中心的なテーマ。

2その善き悪しき:物語でいう、源氏の美点と欠点。

 儒仏などの書の善悪:儒教や仏教でいう善悪。

3変はりあるけぢめない:判断の基準がことなっていること。

  儒教や仏教でいう悪については、1ページ2で述べた。

  儒教における善とは、自己を完成し、家族を仲良く生活させ、さらに力があれば、国家を安定させることである。

  仏教においては、外見の美しさに捕らわれず、現世の欲望を否定することである。

 かのたぐひの不義:2ページ2で述べたような、源氏の悪行。

  源氏物語は、これらの悪行を肯定しているわけではない。

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1さるたぐひの罪:2ページ2で述べたような、人倫に関する罪。

 その方の書ども:儒教や仏教の経典。「ども」は複数の接尾辞。

 さる:副詞「さ」+動詞「あり」連体形の短縮形。

2もの遠き物語:その方面の議論を目的とするのではない物語。

  道徳教育を目的とすると、滝沢馬琴の勧善懲悪小説になってしまう。ここでは、善人は必ず報われ、悪人は必ず罰せられる。

3迷ひを離れて悟りに入るべき法:仏教の経典をさす。

4国をも家をも身をも治むべき教へ:儒教の教典をさす。

  「大学」という教典では、国家を治めようとする者は、まず、その家をととのえ(斉え)、その家をととのえようとする者は、まず、その身を修めよ、と言っている。

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1世の中の物語:人間の世界の出来事を物語ったもの。

 さる筋の善悪の論:仏教や儒教の扱う善悪についての議論。

  さる:5ページ1。

2差し置きて:否定はしないが、それにふれないでおいて

 さしもかかはらず:問題にしない訳ではないが、その議論を主眼とするのでなく。

3もののあはれを知れる方の善き:人間を感動させるという方面で評価されるものごと。

 取り立てて:それを人生の諸側面から取り上げて

4善しとはしたるなり:(たとえ道徳的に問題があっても)文学的観点からは善いものであるとしているのだ。

 この心ばへ:道徳的な評価を二の次にして、人に感動を与えるかどうか、という点で評価していくという、文学の趣旨。

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1蓮:(はちす)ハス。

 愛でん:ハスの花を鑑賞しよう。

 泥水:(ひじみず)どろみず。ハスは、沼に生えるので、鉢などに泥水を入れてハスを植える。

2不義なる恋:道徳的に禁じられている恋。2ページ2。

 その濁れる泥:「不義なる恋」の道徳的に問題のある側面。

3もののあはれの花:文学が主眼とする、人を感動させる側面。

  2ページ2のケースでは、女主人公たちが源氏への愛を断ち切れないでいる一方、自責の念に苦悩する場面。源氏としても、兄帝や父帝に申し訳なく思う一方、押さえきれない自分の欲望にさいなまれ、苦悶する場面。いずれは、これらの恋人たちが別れに直面し、かぎりない悲哀に捕らわれる場面など。

4料ぞかし:名詞「料」+係助詞「ぞ」+終助詞「かし」。材料なのである

  したがって、文学(物語)では、人生の真実に人を感動させることが主眼だから、人間の高潔で英雄的な行為を描くことによって感動を呼び起こす場合もあれば、愚劣で反道徳的な行為を描くことによって感動を呼び起こす場合もある。文学作品を、人間心理を学ぶ教科書として読むこともあれば、社会生活の記録として読むこともあってよいが、文学を文学として読むということは、そこから純粋な感動を得るということである、これが、本居宣長の「もののあはれ」論であろう。