【 南無妙法蓮華経は不完全 】
妙法蓮華経にも欠け…
南無妙法蓮華経という題目では、現代に生きる人々を救い得ないことを、
日蓮聖人ご自身が言明していますので、ご遺文の上から見てみましょう。
(1)『釈迦一代五時継図』に天台大師の『法華文句』から引用して、「普賢
観は法華を結成す」(仏説観普賢菩薩行法経が法華経の結論に当たる)と述べ
ています。
これは、日蓮聖人のお受持ちである妙法蓮華経には結論がないということ
を言っているのです。当然、その宝號である「南無妙法蓮華経」には、末法
万年の闇を照らす救済力はありません。救済力がないにもかかわらず、「南
無妙法蓮華経」によって救われるとするのは、羊頭狗肉です。
(2)『寺泊御書』(『贖命重宝鈔』)には、「法華経は三世説法の儀式なり。
過去の不軽品は今の勸持品、今の勸持品は過去の不軽品也。今の勸持品は未
来不軽品たるべし。其時日蓮は即ち不軽菩薩たるべし」とあります。
『不軽品』というのは、『妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十』のことです。
常不軽菩薩というのは、過去世の釈尊のことで、人間を礼拝して仏になった
ということがこの経典には説かれています。
『勸持品』というのは、『妙法蓮華経勸持品第十三』のことです。この経
典には、悪世末法の中でこの経を弘めようとするのは多くの障害があって難
事だが、大忍力を起こして、身命を惜しまず弘法するようにということが説
かれています。
つまり、日蓮は今、勸持品に説かれていることを行じているけれども、こ
の因縁によって未来は不軽品を行ずることになるだろう。その時日蓮は不軽
菩薩として再誕するはずだ、というような意味です。
これは日蓮の時代には、説時至らざるが故に説けなかったことを、不軽菩
薩(常不軽菩薩のこと)として生まれ変わって説くということです。南無妙法
蓮華経が完全なものであるなら、なにも生まれ変わってまで説く必要はない
のです。足りないものがあるために再誕して補うということです。
実は、不軽菩薩として再誕された方が明治時代に活躍された常不軽無学大
士なのです。無学大士は先祖供養道(せんぞくようどう)の始祖であられます
が、先祖供養道というのは、要するに人間礼拝ということです。即ち、『常
不軽菩薩品第二十』の実践なのです。この行跡から、無学大士は日蓮聖人の
ご再誕であると言えるのです。
(3)『開目鈔』には、「一念三千の法門は但法華の本門・寿量品の文の底に
沈めたり」とあります。
「一念三千」というのは、詳しい説明は第7章の(4)にありますが、簡単
に言いますと、日蓮聖人の説いた一念三千は事の一念三千といわれるもので、
その後の「行の一念三千」の法門は、文の底に沈めてあって、未だ現れてい
ない、つまり、日蓮聖人が説くお役目ではないということです。これも日蓮
仏法は未完成であることを明言しているのです。
(4)『観心本尊鈔』には、「一念三千を識らざる者には仏、大慈悲を起し、
妙法五字の袋の内に此の珠を裏み、末代幼稚の頸に懸さしめたもう」とあり
ます。
妙法五字(南無妙法蓮華経)は袋であって、その中に包まれている宝(珠)は、
まだ開かれていないもの…即ち、私達から見れば、その宝とは、南無先祖
養道(なむせんそぎょうようどう)のことです。
(5)『三大秘法鈔』には、「本門の本尊、本門の題目はあれども、戒壇は
時をまつべきのみ」とあります。
「戒壇」というのは、礼拝の場所をいうのではなく、その真意は、我々人
間が社会において人間らしく生活するということです。日蓮聖人が活躍され
た封建時代には、この「戒壇」が欠落しているのは当然のことでしょう。
以上は南無妙法蓮華経には、濁悪末世の衆生を徹底救済するところの能力
が本質的に不足していることを言明しているのです。そして、御自分の教え
に欠けがあるため、末世には再び御出世されるという法華経上の次の御使命
について、「其時日蓮は即ち不軽菩薩たるべし」とあらかじめ御遺訓された
通り、常不軽無学大士として再誕し、日蓮仏法を完成させるわけです。
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☆ 佐渡以前と佐渡以後との違い…
日蓮聖人は『三沢鈔』の中で、「又法門の事は、さどの国へながされ候い
し巳前の法門は、ただ仏の爾前の経とおぼしめせ」と言われ、佐渡以前の教
えはいわば方便であり、権門であり、未顕真実であることを示しています。
佐渡以後にそれまでの対他折伏から対自折伏(即ち懴悔滅罪)にうつり、日蓮
聖人の教えにおける真実の時代になったわけです。(ちょうど、釈尊の時代に
おいて法華経以前が方便であったと同じように。)
しかしながら、『懴悔滅罪』の法門は「文底秘沈」とか「時を待つべきの
み、事の戒法と申すは是なり」とあるように表には顕れておりません。
懴悔滅罪というのは、衆生こそ本佛(我身如来)の裏返しになっています。
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