【 質問コーナー 】
  私のホームページ「人間関係改善の秘法大公開」で公開されている質問の
うち、代表的なものを集めてみました。

  質問1人間が創造主≠ニいうのは、思い上がっていませんか? 
  答え1:自分自身が創造主というのは、勿論、人間が宇宙を創造したとい
う意味ではありません。 自分の人生の全ての面(経済的、肉体的、精神的)
に関して、自分がその創造主、責任者という意味です。
  例えば、病気は神が与えて下さった試練として、その病気を甘んじて受け
入れる考え方がありますが、これは病気を神のせいにして、自分の責任を認
めず、従って、自分の反省、懴悔がありません。自分を改善しようとしませ
ん。この考え方こそが傲慢で思い上がっているのではありませんか。その結
果、いつまでたっても病気から離れることができません。
  そうではないでしょう。病気を作ったのは自分自身でしょう。病気にもい
ろいろ原因がありますが、自分の心得違い、思い違いにより病気になったの
だから、自分の考え方、行動のどこに間違いがあったのか、狂いがあったの
か、それを探して改善していくのが、真に謙虚な人間の姿といえるのではあ
りませんか。そして、自分を磨いて向上させていくのが、現代の信仰ではあ
りませんか。
  もうひとつ別な面からいえば、自分が創造主というのは、因果応報、ある
いは行の一念三千という真理から、自分のしたことが自分に帰ってきている、
ということです。

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 ☆ すべての病気をする根本原因六種…恩師の解説による病気の原因
(仏説)です。

 1、四大不順…気候等が不順で病気になった場合。
 2、飲食不節…食事がかたよったり、過不足したりで病気になった場合。
 3、坐禅不調…気持ちに安定がなく、常に動揺するために病気になった場
合。

 ☆ 以上の三種が原因で病気になった場合は、医薬や医術で治る。

 4、鬼神便得…祖先の一般的な悪霊にたよられて病気になった場合。
 5、悪鬼の所為…祖先の極悪的な凶霊の所為で病気になった場合。
 6、業の起こるなり…自分自身が現在あるいは前生で、ひどい自己主義専
一的な思想(考え方)による自己の行為の「報」(むくい)によって、病気にな
った場合。

 ☆ 以上の三種は、医薬や医術だけでは絶対に治らない。大荘厳懴悔道(だ
いしょうごんさんげどう)即ち、南無先祖養道の信仰…修行によって、間
違いなくすべて完治する。

 ☆ 病は四百四病という…四百四病とは、単に病≠セけでなく、現代の一
切の病と貧と争≠フ個人、家庭、社会、世界における一切の不幸事≠ニ
心得べきである。
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  質問2:「神や仏を第一義とする宗教の罪悪が、人間の世界を混乱し、
やがて破壊する」というのは、神仏を冒涜しているのではありませんか?
  答え2:人間が神仏によって動かされているという教えの時代は終わった
ということです。人間こそが神仏を動かしているのです。ここに人間の尊厳
があります。これは今発見された真実ではなく、釈尊の御教えに「天上天下
唯我独尊」(自分なるものが最も尊いという意味で、釈尊一人が尊いという
意味ではありません)とあるように昔からそうなのですが、まだ時機がきて
いなかったので、真実をあらわせなかったのです。神仏は尊いに違いありま
せんが、神仏中心の教えはいわば仮の教えです。人間こそが神仏の始まりな
ので、人間中心の宗教…人間が人間をお互いに礼拝する生活…が真実の教え
です。
  これは宗教における革命です。例えば、天動説が地動説に変わったように、
今は真実顕現の時代で、人間礼拝の宗教の時代が必ず来ます。その時が地上
天国の始まりです。

  因果応報、善因善果、悪因悪果という真理を突き詰めていくと、結局はす
べて自分の責任、人間自身の責任ということになるのですが、神仏中心の教
えは、人間をないがしろにするがゆえに、人間の責任を忘れさせるが故に、
人間世界を破壊します。例えば、地球環境を守るのは人間自身であって、神
仏ではないということです。これは当たり前のことでしょう。人間に主体性
があるのです。
  人間が責任を負わなければならない時代に、神や仏を第一義とする宗教は、
人間の主体性を無視することになるので、人間の世界を混乱し、やがて破壊
するということになるのです。ですから、人間中心、人間礼拝の宗教が必要
です。この考え方は一見、神仏を冒涜しているように見えますが、そうでは
なく真実なので、本当に神仏の守護があり、功コが現れるのです。そして、
これこそが釈尊の真実の御教え(仏説)なのです。
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  質問3日蓮が本仏か?…平成九年の七月か八月の読売新聞に、『日蓮
大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ』という本の全面広告が出ました。
その中に、「日蓮聖人こそ御本仏……」という文章がありますが、これは本
当でしょうか?
  答え3:日蓮聖人は私たちにとって先祖の一人には違いありませんが、本
仏であるというのは誤解です。(正確に言えば、日蓮聖人も私たちと同様、
本仏の一人ということになりますが。)
  なぜなら、日蓮聖人はその著書の『諸法実相鈔』(文永十年、御年五十二
才著)の中で、「本仏というのは凡夫なり」とおっしゃっているからです。
つまり、私達一人一人が本仏だということです。

  その一部を紹介しますと、……経に云く、「如来秘密神通之力」是なり。
「如来秘密」は體の三身にして本佛なり。「神通之力」は用の三身にして迹
佛ぞかし。然れば釈迦佛は我等衆生の為には、主・師・親の三コを備へ給う
と思いしに、さにては候わず。返って佛に三コを被らせ奉るは凡夫なり。そ
のゆえは如来というは天台の釈に、「如来とは十方三世の諸佛・二佛・三佛
・本佛・迹佛の通號なり」と判じ給えり。此の釈に本佛というは凡夫なり。
迹佛というは佛なり。……とあります。

  もし日蓮一人を本仏とし、第一義とするならば、それは権力主義の始まり
です。
  例えば、浄土真宗の人達は親鸞が第一義と言うでしょうし、クリスチャン
はイエスこそ救世主だと言い、イスラム教の人達はアラーを唯一全能の神と
するでしょう。つまり、そこには対立が生まれ、争いが生じ、やがて人間の
世界が混乱し、破壊されていくのです。
  ですから、偉大な人を崇拝し、目標とするのは良いですが、その人を唯一
絶対の神とするのは現代にはふさわしくありません。一人一人が本仏なので、
人間礼拝(先祖養道…お互いがお互いを神仏として敬いあい、拝みあうこ
と)こそが人類が和合し、世界平和が達成される唯一の大道なのです。
  ですから、最初の『日蓮聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ』というの
は、時代錯誤です。
  「私たち一人一人が本仏」ということは、自分が創造主であるということ
です。ということは、宇宙をつくったのは、自分だという意味ではなく、自
分の人生を創造しているのは、他ならぬ自分自身だということです。自分の
人生に関しては自分が責任者です。
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  質問4サンゲって一体何ですか?何も悪いことはしていないのに、な
ぜサンゲが必要ですか?
  答え4:ここでいう懴悔というのは、何か悪いことをしてその罪を「ざん
げ」するという意味ではなく、すべての事柄は自分に責任があるということ
を認めることです。自分の一念、思い、行動が周囲に影響を及ぼし、それが
自分に返ってきます。自分自身の善悪の言動がそのまま、自分と廻りに影響
を及ぼしているので、一切が自分の責任であることを認め、それを南無先祖
養道の実践によって、良い方に変えていくことを「さんげ」と言っていま
す。
  人はだれでも幸福になりたいと思っていますが、現実には病気、貧乏、争
いに満ちた生活をしています。また、物心共に恵まれて、こういう厳しい時
代にも何の心配もなく幸せに暮らしている人も大勢います。その差は結局、
過去世と現在に自分が発してきた想念と言動の結果というほかはありません。
たとえば、いつも人の幸せを願っている人と、今の自分の想いが『身とは殺
・盗・婬…』ばかりの人とでは、その人生の結果は当然違ってきます。人生
の創造主は自分自身ですから。
  そして日常生活で、会社や家庭や学校で、憎い、悔しい、ねたましい
などの思いを持ったことありませんか。もしあれば、人の性質は生まれ変わ
っても簡単には変わりませんから、過去世にもそういう思いで暮らし、大凶
作の年には、他人に対して殺・盗・婬をしてきた自分だったということが言
えるわけです。そして、経文(仏説観普賢菩薩行法経)にありますように、
心得違い、思い違いなど不知不識に犯してきた罪咎もあります。その結果が
現在の自分の生活を作っているわけです。
  仮に善なる思いだけで生きてきたとしても、生きている以上は他の生命の
犠牲の上に生きているわけですから、他の動植物は人間の役に立つことでそ
れぞれの懴悔滅罪になっているとしても、人間としてのさんげ≠ェ必要で
す。ですから、悪い想念を発してきたことと、他の生命の犠牲の上に生きて
いるということから、何も悪いことはしていなくても、懴悔は必要です。
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  質問5キリスト教の本質≠ノついて説明して下さい。
  答え5:キリスト教の本質は、結論から申しますと、権力主義、全体主義
であるということです。
  キリスト教には「汝の隣人を愛せよ」という聖語があり、多くのクリスチ
ャンが、その教えをボランティア活動として実践しているため、愛の宗教と
いう印象を持つわけですが、これは相手をどこまでも他人と見ての隣人愛の
行為です。仏教のように相手を自分と一体と見る大愛道とは、本質的に異な
るものです。
  キリスト教の本質は、神と人間との関係を、作ったもの(造物主)と作ら
れたもの(被造物)とし、神を万物の創造主…主宰者とするために、神とい
う絶対者が中心で、どうしても全体主義、権力主義的な物の考え方をすると
ころにあります。個人というものが自然と無視されるようになります。キリ
スト教国による植民地政策などはその本質の現れです。
  また、神と人間との関係は、創造者と被造物という見方をするので、物の
考え方の根本に対立する原理があります。従って、どうしても敵を作り、対
立がなくならないのです。

  仏教の場合は、釈尊はすでに成じた仏、一般大衆はこれから成じようとし
ている仏ということで、根本的には対立はありません。釈尊と大衆とは一体
だということです。仏教では根本理念に生命の一体観があるので、相手を徹
底的に否定する争いは少ないのです。
  これに対してキリスト教では、対立の原理により、他の宗教を一切認めま
せんから、争いがなくならないのです。しかも、彼我一体という考え方はあ
りませんから、徹底的に相手を滅ぼすまで争うのです。従って、キリスト教
の愛の教えというのは、あくまでも彼と我とは別という考えが根底にあるも
のです。
  また、転生輪廻を認めないため(転生輪廻を認めるキリスト教派もありま
すが少数派です)、他の国に自分達の先祖が生まれ変わっているかも知れな
いという発想はできないのです。だから、キリスト教国は平気で他国にミサ
イルを打ち込めるのです。そういうわけで、キリスト教では世界平和を達成
できませんから、キリスト教は二十一世紀の地球一体生活時代の宗教には成
り得ません。
  以上まとめてみますと、キリスト教はその根本理念に対立があるというこ
と、生まれ変わりを認めないため、生命の一体観を持てず、従って、争いが
多いというわけです。

  宗教というものは、その人の思想に影響を与え、そこから行動がうまれ、
その人の人生を形作っていく根本になるものなので、どんな宗教でも良いと
いうことにはなりません。その本尊なり本質が、人間の生活に決定的な影響
を及ぼすものなので、その本質を吟味する必要があるのです。アメリカなど
の銃社会で他人を平気で傷つけることができるのは、キリスト教の悪影響に
よります。すなわち、神と人間とは別個という二元論の考え方が、相手と自
分とは別個という考え方を自然と生み出すのです。近年、日本でも夫婦の離
婚率が高くなり、崩壊する家庭が多くなってきているのも、キリスト教の悪
影響により、夫婦一体という考え方がなくなってきているからです。
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  質問6:宝號…南無先祖養道を唱えることに何の意味があるんです
か?
  答え6:まず宝號というものは、仏法の精髄(エキス)で、一音即肝(膨
大な仏法の内容を一音でもってあらわしたもの)です。そしてこれは、南無
阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無先祖養道と順に説かれ、現代は南無先
祖養道(なむせんそぎょうようどう)と唱えるべき時代です。
  宝號を唱えるというと、皆さんは、何かに一所懸命すがって助けてもらう
という姿をイメージするでしょう。
  確かに、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経は、その宝號の持つ本能的体質、
本質により、そういう傾向が強かったのです。例えば、法然上人の南無阿弥
陀仏は、それまでの貴族仏教を大衆のものにした功績は大ですが、その意味
合いは、「阿弥陀仏によって救われる」ということだったので、その信仰態
度はどうしても、阿弥陀仏にすがって拝み倒して、だんだん頭が下がってし
まうというものでした。
  次に登場した南無妙法蓮華経は、「阿弥陀仏によって救われる」のではな
く、「自分によって自分が救われる」という意味でしたが、あくまでも理論
的なもので、ではどうしたらよいのかという具体的な方法はまだ顕現されて
いなかったのです。
  また、時代的にも封建時代ですから、「自分によって自分が救われる」と
いうことは、理解の及ばないことだったのです。「領主や地主によって救わ
れる」といえばピンとくる時代だったのです。
  ですからどうしても、「南無妙法蓮華経」は、理念は正しいが具体性に欠
けるといった中途半端なものなので、その信仰態度も、「日蓮聖人によって
救われるのか」それとも「自分によって救われるのか」あいまいにならざる
を得ないのです。ちなみに「南無妙法蓮華経」というのは、日蓮によって救
われるという意味ではありませんよ。

  さてそこで、大集経という経文には、末法(今の時代)には仏法は一応滅
尽するが、「白法隠没して大白法顕わる」とあります。この金言の通り、南
無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経などの白法はその効力を失って後退し、替わっ
て大白法、即ち私達からいえば、大御宝號(南無先祖養道)が末法万年に
亘って顕現するということなのです。
  それを裏付ける証拠として、日蓮聖人はご自分の仏法の欠けを補うため、
『其時日蓮は即ち不軽菩薩たるべし』(寺泊御書)のお言葉の通り、明治時
代に常不軽無学大士としてご再誕され、「先祖供養道…せんぞくようどう」
を創始されたのです。これは神仏礼拝ならぬ人間礼拝といえるものです。                                                                                                                                                       
  父母、祖先の尊重、礼拝は、そのまま宇宙の生命全体を礼拝することにな
るので、人間礼拝こそ真の神仏礼拝になります。
  そして、この「先祖供養道」は発展して、私共の恩師、常不軽台学国明先
生によって、「南無先祖養道…なむせんそぎょうようどう」が天授開顕
されます。ここに来て初めて「自分によって自分が救われる」ということの
行法が確立され、具体的にどう生活し、どう行じていったらよいかというこ
とが完成されたわけです。
  そういうわけで、この三つの宝號はひとつの流れであり、「南無先祖
養道」が、その最終結論ということになります。

  さてここで本題に戻って、宝號(南無先祖養道)を唱えることは何を意
味するのか?ということですが、これはもちろん何かにすがるというような
意味ではなく、自分に関係する事柄はすべて自分に責任があるということで
す。世の中の一切の出来事は自然現象も含めて、自分の出した善又は悪の想
念に起因しているわけですが、その責任を認め、自分の出した悪想念は自分
自身が責任を取る、掃除をするということです。
  「南無先祖養道」を唱えるということは、この自分の出した悪想念…
マイナスの波動を浄化し、プラスの波動に変えるものです。これを「懴悔…
さんげ」といいます。
  何かを拝んで助けてもらうのではなくて、自分で自分の掃除をする、責任
を取るということです。その結果、「滅罪」になるわけです。即ち、各自の
病・貧・争の問題が解決します。ですから、卑屈になる必要はなく、堂々と
御宝號をお唱えすればよいのです。人間こそが善悪ともに自分の運命の創造
主であったのです。
  また、唱えるということは、知らず知らずのうちに、自分の持っている
「恨み、妬み、つらみ」などの悪想念を昇華し、善の想念に変えているので
す。即ち、自分の改革をしていることになります。ですから、ストレスなど
もありません。そして、感謝の念がわいてきて、物事の真の姿が見えるよう
になります。
  そして、「南無先祖養道」と唱えることは、『一弾指の頃に百萬億阿
僧祇劫の生死の罪を除却せん』(仏説観普賢菩薩行法経)と経文にあるよう
に、指を一回パチンとはじく間に罪業が消滅するということでもあります。
なお、「最低三百回は唱えよ」ということが、恩師の仰せであります。
  以上まとめてみますと、宝號を唱える意味は、

 1、過去に自分の出した悪想念を浄化するということ。
 2、現在の自分の悪想念を善想念に変えるということ。
 3、未来において現れるであろう自分の悪業の因縁について、大難を小難に
小難を無難に変えていく、ということになります。
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  質問7:総法号を唱えるだけでストレスが解消するんですか? 信じられ
ない。それなら医師は必要ないですね。
  答え7:総法号を唱えるだけでストレスが解消するというのは、信じられ
ないかも知れませんが、まず試してみて下さい。必ずスッキリします。
  ストレスだけでなく、他の多くの問題は自分自身の心得違い、思い違いが
その要因になっているわけですが、総法号は懴悔の方式なので、消しゴムで
消すように自分のカルマが消えていくのです。これは長い間の多くの体験に
よって実証されています。
  この総法号の方式は、私の恩師が開かれた大荘厳懴悔道(だいしょう
ごんさんげどう)の一部分です。これによって、その問題の原因が霊的なも
のにある場合、病気の根本原因六種に明示してありますが、例えば、憑依霊
によるとか、自分の業による場合は、これは懴悔滅罪の大法で解決します。
しかし、それ以外の場合は(例えば、不摂生や外傷など)、医薬で治ります
から、やはり医師は必要です。
  要は問題の原因によって使い分けることですが、例えば、病気で医師の診
断を受ける場合でも、その誤診を防ぐには、やはり懴悔滅罪の大法が必要で
す。なぜなら、自分の因縁が医師をして誤診せしめるので、誤診の責任は医
師ではなく、自分自身にあるからです。
  もちろん、医師の立場からすれば、患者との前世からのつながりがあるは
ずなので、そういう意味で医師としての責任はあります。
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  質問8相手を恨んではいけないと書いてありますが、恨みの念がなか
なか取れません。
  答え8:恨みの念が取れない ということで、お気持ちはよくわかります
が、相手を恨む気持ちがあると悩みは解決しませんから、南無先祖養道
をたくさん唱えて、恨みの気持ちを昇華するように努力して下さい。
  昔から「人を呪わば穴二つ」とか言われて、呪ったり、憎んだりすること
は、自分自身に返って来ますから、あまり良い事ではありません。それより
も、憎む気持を逆に感謝の気持に昇華させることの方が、より仏教的ではな
いでしょうか。
 以下は私が恩師から伺ったご法話ですが、どうぞ参考にして下さい。『肥
後の高下駄』という話です。私は聞き覚えの為、要点のみ記します。

  ☆
  ある冬の寒い朝、殿様がお出掛けになると言うので、草履取りの足軽が、
殿様の高下駄を懐(ふところ)に入れて暖めておいたところ、それを履いた
殿様に、「尻に敷いていたな!」と咎められ、その高下駄で眉間を割られた
のです。
  眉間を割られては武士の恥、自殺しようかと思い悩んだこの足軽に、ある
人が、殿様を見返してやる方法があると言って出家を勧めたのです。
  この足軽は中国に渡って修業し、四、五年後、日本へ戻ろうとしたが、ふ
っと、かつての殿様を憎む気持が湧いて来たため、更に修業して日本に戻り、
高名な僧となって、仙台に寺院を営むようになったのです。
  さて、その肥後の殿様も出世して、仙台の領地を治めるようになった時、
何も知らない殿様は当家の菩提寺にと、当時の最も高名なこのお坊さんに恐
る恐る頼んだところ、快く引受けてくれたのです。そして、法要のときにお
坊さんが大事に拝んでいる物を、殿様が見て、自分にも拝ませてくれと頼ん
だところ、お坊さんは断ったのですが、是非にと言うことで、その桐箱に納
まっている物を開いたら、あの高下駄だったのです。
  足軽当時、自殺までしようとしたかつての自分が、この憎いはずの高下駄
のおかげで、今は日本でも高名な僧侶になっている。しかも、将軍家の殿様
と同座だ。感謝こそすれ、何で憎むべき道理があろうか。と、ざっとこうい
うお話です。
  ☆

  人を恨んだり、憎んだりするような目にあうのも、結局は、自分が至らな
いからです。自分を磨いてもっと立派な自分になれば良いのです。それにも
う一つは、人に苦しめられたりするのは、前世にその人を苦しめたからです。
因果応報ゆえに自分に返って来ているのです。ですから、人が悪いのではな
く、すべて自分に責任があるのです。(このことを真の意味での「自由」と
言います。)
  そういう意味からも、人を恨んだり憎んだりしてはいけない、恨むんなら
自分を恨めと言うわけです。しかし、自分を恨むだけでは自己嫌悪やノイロ
ーゼになるでしょう。そこで、この恨み憎む気持を、宝號(南無先祖養
道)によって感謝の気持に転換させるのです。
  かつて日蓮聖人が竜口の法難と言われる迫害に遭った時に、追腹を切ろう
とする弟子に、この難によって日蓮の悪業が消滅するのだから、喜びこそす
れ悲しむべきことではないと諭しています。
  つまり、自分に来る苦しみはすべて、自分の責任に拠るということ、そし
てその苦しみこそが自分を救い、自分を立派にする基だと思います。だから
人を憎むのではなく、感謝すべきです。「発想の転換」とはこういうことを
言うのではないでしょうか。それが仏教者ではないかと私は思います。
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  質問9:人間関係改善の秘法って本当に効くんですか
  答え9:本当です。私が恩師から受け継いだことを、実生活の上で、皆さ
んにも体験していただきたいと思って努力しています。人間関係改善の秘
法≠ニいうのは、懴悔滅罪の大法≠フ一面です。(HPはこちら)
  人それぞれに悩みや苦しみが違うし、その人の因縁も違いますから、人間
関係改善の秘法の効果について一概には言えませんが、だいたい普通の人間
関係のように実行してすぐ効果が現れるものと、病気の治療のように効果が
はっきりしないで長くかかるものがあります。また、毎日の生活上、違った
因縁が生起するので、毎日実行するものもあります。また、ここでは簡略な
方法しか説明していませんが、信仰を持って正式な方法で実践する必要があ
る場合もあります。
  どちらにしても、行の一念三千(自分の一念が周囲に影響を与えるという
真理)ですから、この秘法が人間関係に、確実に良い影響を及ぼしているこ
とは間違いありません。
  ところで、病気の治療がなぜ人間関係なのか疑問に思われるかも知れませ
んが、人間関係改善の秘法≠ニいうのは、もともと悪霊や凶霊などによる
霊的障害を解消することによって、日常生活のあらゆる場面における問題の
改善を図るものなので、病気の原因が悪霊などによる場合は、広い意味で言
えば、やはりこれも生霊対死霊の人間関係になるわけですから、人間関係
改善の秘法≠ノよって、治療効果が出るわけです。

  論より証拠ですから、私が体験したことを次に記します。
  トラックの運転をしていた時のことですが、東京の吉祥寺付近で荷物を配
達していて、Aの店におろす品物を間違えて、Bの店におろしてしまいまし
た。こういう仕事上のミスはもちろんしない方が良いわけですが、これも何
かの教訓だと思って、良い方に解釈するようにしています。
  一日に二回別な区域への配送があるのですが、誤配がわかったのは、一回
目の配送が終わって会社に戻り、二回目の品物の積み込みをしている時でし
た。『午後四時までに、誤配した品物を届け直すように』ということでした。
  とにかく二回目の配送が済んでからでないと行けませんから、時間的にキ
ツイなと思いました。当日は土曜日で夕方、しかも場所は吉祥寺です。道路
の渋滞が心配です。Aの店もBの店も連絡が取れているとはいえ、迷惑をか
けてしまったので、両方の担当者との人間関係も心配です。そして、なによ
り早朝と違って夕方ですから、トラックを止める場所があるかどうかです。
そういうようなことを心配しながら、私はハンドルを握りました。そして、
運転しながら次のような総法号を唱え、ご宝號を唱え続けたのです。

  倉田修一当五十才の道路の渋滞に関交する悪業障因縁一切の諸精霊、
並びに
  倉田修一当五十才とAの店の担当者との間に関交する悪業障因縁一
切の諸精霊、並びに
  倉田修一当五十才とBの店の担当者との間に関交する悪業障因縁一
切の諸精霊、並びに
  倉田修一当五十才のトラックの駐車に関交する悪業障因縁一切の諸
精霊。 

  これで、文字通りお蔭様で、両方の店の担当者ともうまくいき、Bの店か
ら品物を引き取って、Aの店に納めることができました。全部終わってトラ
ックに戻ったら、午後四時五分でした。車はデパートのわきに駐車したら、
警備員さんが来て、十五分くらいならいいよ、と言ってくれたのでした。

  また、これは正式な方法によるものですが、秋田県にお住まいのTさんか
ら、『娘(三十代)が末期の肝臓ガンで苦しんでいる。なんとか痛みだけで
も止めてくれ』という意味の依頼がありましたので、こちらで一所懸命実践
させていただきました。その念願の初日に、痛みが取れて眠れるようになっ
たのか、昏睡状態に入ったということです。そして、一週間ほどして他界し
たということです。
  以上はほんの一例です。ぜひ皆さんもちょっとしたことでよいですから、
試してみて下さい。必ず効果があります。
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  質問10:社会道徳を守って正しく生きていけば、宗教は必要ないのでは
ないですか?
  答え10:まずポイントを先に書きますと、
 1、「行の一念三千」という法則から、二十一世紀は生活そのものが宗教と
なる。つまり、意識せずに信仰していることになる。生活の規範が自然とで
きてくる。宗教を特別視する必要はない。
 2、心がけだけではどうにもならないものがある。
 3、因縁(業)はその根が残っている限り、何世も続くので道徳では解決で
きない。道徳は一世、仏法は三世にわたる。
 4、宗教は思想、思念、行為の原本。
 5、宝號が必要。

  (1) … 宗教というのは生活そのものですから、特別視することはありま
せん。例えば「行の一念三千」ということを考えると、自分の一念が善悪と
もに周囲、環境、天候に影響を与え、その影響をまた自分が受けるわけです
から、悪想念を出さないようにしようという生活上の知恵というか、生活の
規範が自然と身に付いてくるわけです。人間関係も、相手に対して常に感謝
の念を持つようにすれば、良好な関係が築けます。宗教を特に意識する必要
がなく、生活に取り入れることができるのです。
  また、裏表紙の絵図から輪廻転生を考えると、自分の子孫が世界中に生き
ているわけですから、戦争をしようという気持ちはなくなり、真の恒久世界
平和が現出するわけです。これも宗教というより、「生命の真のあり方」が
事実として認識されてくれば良いわけです。要するに、宗教とは生活そのも
のだということです。

  (2) … 人間として生まれてくれば、だれでも道徳は家庭教育で身につけ
ています。特に日本は、儒教や仏教の影響を強く受けていますので、社会道
徳といわれるものは外国に比べ、日本人は身につけています。
  社会道徳を守って正しく生きていけば、現世においてそれなりに幸せに暮
らせますが、道徳を守っても、心がけを良くしても、それだけではどうにも
ならないものがあります。例えば、毎日起きる交通事故、だれも好きで事故
を起こす人はいないし、注意していても起きてしまうものです。道徳や心が
けだけではどうにもなりません。
  また、病気ひとつとってもそうです。不摂生による病気なら注意すれば治
りますが、悪鬼、悪霊による病気は、医薬などでは治りません。

  (3) … そもそも道徳とか心掛けは、現世に限定したものです。広げて考
えても現世と未来に対しては有効ですが、過去世からの影響である因縁(業)
に対しては範囲外なのです。
  仏教は、過去、現在、未来の三世にわたる教えで、因縁(業)の浄化を顕
示しているのに対して、儒教や道徳は現世だけの教えです。おのずから、社
会道徳には限界が見えてくるでしょう。

  (4) … 宗教は思想、思念、行為の原本です。人の行為はその人の思想、
思念から出てきますが、その思想を形成するものは、その人の持つ宗教です。
例えば、その宗教が、神と人間との関係を創造者と被造物などの対立する原
理に基づいている場合、その人の発想から生命の一体観というものは生まれ
てきません。生活のすべてにおいて、対立の思想、言動が出て来ます。
  仏教のように、釈尊と凡夫は一体で、釈尊は既に悟った仏、凡夫はこれか
ら悟ろうとしている仏というような原理に基づいている場合は、その本質に
おいて対立がなく、一体なので、現実生活の上でも、生命の一体観に基づい
た生活ができるわけです。ですから、二十一世紀の地球一体生活時代には、
その本質において対立のない宗教が必要です。

  (5) … 結論を言いますと、因果応報の原理から、過去の結果が現在に現
れ、現在は未来の原因を作っているので、現在を生きるということは過去と
未来とを同時に生きていることになります。過去の影響を受けて現在がある
わけですから、社会道徳だけでは解決しない問題もあるわけです。ですから、
現代以降はどうしても仏教、しかもその最終結論である先祖養道が絶対
必要です。宝號が必要です。宝號というのは、一音でもってその肝心かなめ
を現したものです。名づけて一音即肝と言います。
  仏法のエキス、精髄…大御宝號(南無先祖養道)、この一音に無量の功
コ、不思議の力まします。
  今大変大きな問題になっている精神病ですが、これは憑依霊が原因なので、
医薬では絶対に治りません。勿論社会道徳で治るはずもありません。これは
南無先祖養道の信仰修行…懴悔滅罪で必ず完治します。そういう意味で
も宗教は必要です。しかし、生活に溶け込んでしまうので、あえて宗教を意
識する必要はないということです。
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  質問11:結婚したら妻の実家の方のご先祖もお迎えして、過去帳にのせ
るように勧めていますが、妻の方の先祖は実家の方で守っているのだから、
それでよいのではないですか。よその先祖を迎えたら混乱しそうな気がし
ますが?
  答え11(1) 私の恩師は結婚式に出席なさると、必ず新郎新婦に、「お互いの両親
をおたがいに死にもの狂いで徹底的に愛しなさい、大事にしなさい。それが
夫婦円満のコツだよ」とおっしゃってこられたそうです。お互いの先祖を両
家の過去帳にのせて、お互いに拝み合うことも、恩師の教えの一つです。家
庭円満になるのを霊界から応援してもらえるようになります。多くの御法名
が書写してある過去帳こそ本当の家宝といえるものです。

 (2) 裏表紙の先祖の絵図を見ると、全て自分につながっている自分の先祖
だということが分かります。遠い近いの差こそありますが、よその先祖とい
うのはありません。自分の先祖と他の先祖を区別するのは家族的利己主義
(エゴイズム)の始まりです。その利己主義が自分の不幸、不運の元になっ
ています。

 (3) 今までの自分の先祖と他の先祖を区別する生活をやめて、全てを自分
と見る彼我一体の生き方を目標にして、運勢を良い方に変えていきましょう。
自分が変われば周囲の全てが変わります。

 (4) 彼我一体の生き方につながるかどうかが、旧来の先祖供養と浄妙教団
の南無先祖養道の根本的な違いです。

 (5) 結婚して生まれてくる子供は両家の先祖から生まれ変わってくるので、
夫婦両方の先祖の御法名を過去帳にのせて、朝夕礼拝する生活によって、子
供は反抗期もほとんどなく、素直に育ちます。考えて見ればこれは当然のこ
とで、先祖を無視すれば、その生まれ変わりである子供は親不孝になり、親
先祖を大切にすれば、その子も人や物を大事にするようになります。

 (6) 親、先祖の立場からすれば、実家を継いだ長男、長女だけが位牌をま
もれば良いのではありません。子供が三人いて独立すれば、それぞれの家庭
で供養してもらいたいものです。位牌は一つでも、過去帳はそれぞれの分を
作れます。子供たちが全員菩提心をおこせば、それは親、先祖がおこさせた
ことになるので、先祖の功コとなり、先祖の成仏を助けることになります。

 (7) 先祖が混乱していない証拠には、自分自身が進歩します。進歩は先祖
の成仏のバロメーターです。家庭、仕事、健康などいろんな面で先祖が後ろ
盾になり、霊界からの守護が現れますから、それが先祖が喜んでいる証拠で
す。また、自分の悩み、心配事などが不思議と解決します。以上のようなわ
けで、あなたのご心配は無用です。まずは一体でも多くの先祖の御法名を過
去帳に書写するように努力して下さい。自分の実践した分が実生活に現れて
きます。
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  質問12教祖の御出身は韓国ですか?
  答え12:教祖の常不軽台学先生の出身は韓国というのは本当です(本籍は
岩手県胆沢郡)。恩師の略歴は第4章で紹介しましたが、出身地にこだわる
ことはありません。先祖の絵図を見るとわかりますが、三十二代前の先祖の
数は八十五億人を超えます。これは現在の世界人口(約六十四億人)をはる
かに超えています。つまり、世界中が一つにつながっているということです。
  例えば、前世に韓国に生まれていれば韓国人、アメリカに生まれればアメ
リカ人です。そして、生まれた国でそれぞれ子孫を作ってきたわけですから、
世界中が自分と血のつながりがあるといえます。この先祖養道の考え方
が世界の和合につながります。ですから、出身地にこだわる必要は全くあり
ません。
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  質問13転生輪廻は本当にあるの? 人間が生まれ変わるということが
信じられません。
  答え13:生まれ変わりについて…いくら説明しても、転生輪廻ということ
を眼で見て確認することはできませんから、これは信じてもらうしかありま
せん。生まれ変わりを信じた方が未来に希望が持てて、人生観が明るくなり
ます。
  キリスト教では生まれ変わりを認めていません(聖書には生まれ変わりを
暗示している箇所もあります)が、仏教ではたくさんその事が経文に出てく
るので、当然のこととして受け止められています。
  例えば、妙法蓮華経提婆達多品第十二には、あれほど釈尊の邪魔をする提
婆達多(だいばだった)も前世は釈尊のお師匠様で、提婆のおかげで仏にな
れたと説かれています。そして今世(釈尊の在世当時)は、形を変えて(釈
尊を苦しめることによって)、釈尊の悟るのを助けています。ですから、提
婆も未来に仏になれるという授記を与えられるわけです。(因みに、提婆達
多品は恨みの念を浄化させる経文です。)
  また、生まれ変わりの実例は世界中にたくさんあります。以前に『大法輪』
という宗教誌に載っていた話ですが、あるアメリカ婦人に催眠術をかけて、
『年齢退行』ということをしたそうです。

  「あなたは昔に帰って今九歳です。きょうは秋祭りですね。学校は休みな
の?何曜日?」「日曜日なの」(三十年前のその日は本当に日曜日であった)
…。こうして六歳にし、一歳にし、それからさらに誕生前に帰す……。

  その婦人は百数十年前、アイルランドにいたと話したそうです。現世では
アイルランドに行ったこともなく言葉も知らないのに、その地方の方言で、
今は存在しない昔の地名を話し、そしてそれが実在していたことが確認され
たということです。

  生まれ変わりという事を肯定すると、いろんなことが納得できるようにな
ります。たとえば、世の中の不平等はたくさんありますが、これも現世の努
力の結果ということだけでは説明のつかないものがあります。健常者とそう
でない人がいるという不平等、貧乏な家庭に生まれる子と裕福な家庭に生ま
れる子の不平等、人によって様々な能力の違いなどの不平等、これらはすべ
て前世からの引き継ぎや過去世のその人の言動の結果によると考えると納得
がいきます。つまり、前世があると考えると、一見不平等に見える事柄も、
実は平等であってバランスがとれているのです。不平等を創り出しているの
は他ならぬ自分自身であったことがわかるのです。
  ここで一つ問題になるのは、肉体的な問題です。例えば、生まれつき耳が
聞こえず、口がきけないという場合ですが、これについては、妙法蓮華経隨
喜功コ品第十八に、法華経を信じ世の中に弘めていけば、百千萬世ついにお
しには生まれないという意味のことが出ています。逆に考えますと、生まれ
つき肉体的な障害がある場合は、そうなるにはそれだけの事を過去世にして
きたということです。自分の出したものが自分の受け取るもの…因果応報と
いうことです。冷たいようですが、これは宇宙の法則なのでしかたありませ
ん。それだけに功コを積んでいけば、来世はそういう不幸にあわないわけで
すから、生まれ変わりを信じることは未来に希望が持てるわけです。
  現在の不幸は過去世に原因があるのなら、過去のことは直しようがなく、
現在の状態に甘んじるほかないのかということになりますが、これについて
は、仏説観普賢菩薩行法経には「佛の語に随順して懴悔を行ぜん者は、…
一弾指の頃(指を一回はじく間)に百萬億阿僧祇劫の生死の罪を除却せん」
とあって、ちゃんと救いの道が説かれています。これが南無先祖養道な
のです。

  私の恩師(常不軽台学先生)は転生輪廻について次のような事をある時の
法座でおっしゃっています。
  先生が岐阜に行かれた時の新幹線の車中でのことだそうですが、たまたま
同席した人に、『色即是空、空即是色』の意味を聞かれたそうです。そこで
先生は、「生まれたためしのない者は死んだためしがない。死んだためしの
ない者は生まれたためしがない」とお答えになったそうです。簡単にいえば、
生まれ変わり死に変わりする(生まれれば必ず死に、死ねば必ず生まれる)
ということです。霊界と現界の循環です。
  そういうわけで、転生輪廻の法則は新たな意欲と未来への希望をもたらし、
人生に有益なので、信じていただきたいと思います。
  因みに、私のすぐ前の前世は、これは母の霊感でわかったことですが、
高橋和四郎という名前で、昭和二十三年一月二十七日に死亡しています。そ
して私は一年十ヶ月後に、和四郎の養女であった母の長男…倉田修一として
生まれ変わってきたというわけです。
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  質問14信仰と医学の関係…信仰で病気が治るというのはおかしいので
はないですか?
  答え14:信仰というのは自分の懴悔ですから、信仰で病気が治るという
のはおかしくはありません。むしろこれが本当の治し方です。病気には、信
仰でなければ治らない病気と医学でなければ治らない病気があります。ここ
で扱うのは悪霊にたよられて病気になった場合とか、自己の行為の「報」
(むくい)によって、病気になった場合です。これは南無先祖養道の信仰
…修行によって、間違いなくすべて完治します。懴悔滅罪です。
  また、医学でなければ治らない病気にしても、信仰を持つことによって、
たとえば、良い医師にめぐり合うとか、良薬や良い治療器具に恵まれるとか
して、その病気が早く治るように順序がついてきます。
  また、手術をする場合でも、南無先祖養道の信仰によって、難しい手
術でも成功し、快復も早まります。私が関係した事例では、脳の手術が二件
ありますが、正式な念願の方法によって、いずれも通常より短い時間で手術
が済み、現在はお二人とも職場に復帰しています。
  そしてもう一つは、誤診を防ぐことができるということです。誤診という
のは医師の責任のように思われますが、事実は自分自身の因縁が医師をして
誤診せしめるので、自分の因縁がなくなれば誤診はありません。この懴悔滅
罪の信仰によって、因縁は善縁に変わります。
  また、医師が懴悔滅罪の信仰を持って診察にあたれば、誤診はなくなりま
す。このように正しい信仰と医学とは相反するものではなく、融合するもの
です。
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  質問15:宗教というと普通、「人間は生かされている」と考えますが、
あなたは違うようですね。
  答え15:人間は生かされているのか?というのは、とても難しい問題で
すが、考えてみたいと思います。
  仏教にしてもキリスト教にしても、「人間は生かされている」と考えるの
はごく普通です。そう考えた方が謙虚でつつましいからです。しかし、本当
にそれで良いのでしょうか? 私はここで皆さんに考えていただく材料を提
供したいと思います。
  仏教には、「因果応報」という言葉があります。これはご存知のように、
「自分のしたことが自分に返ってくる」ということです。つまり、善因善果、
悪因悪果です。この「因果応報」という真理から、自分の自由意思で善悪ど
ちらの人生でも、自分で創造できることがわかります。自分の未来を創造し
ていくのは、自分自身です。自分に主体性があります。
  「人間は生かされている」と考えると、自分の意思に関係なく、神仏のご
意思によって生かされているということになります。そうすると、自分の自
由意思はどうなるのでしょうか。例えば、お酒を飲み過ぎて肝臓を悪くした
場合、それは自分が悪いのですか、それとも神仏のせいですか?この場合は
自分の責任ですね。
  では、人並み以上に働いて財を成した場合、これは自分の努力ですか、そ
れとも神仏の恵みですか?
  これを自分の努力だけと考えると、思いあがっていることになります。要
するに、人間の真のあり方に合致した生き方をしていけば、そこに神仏の御
力が加わるわけでしょう。しかし、あくまでも主体は自分自身です。例えば、
地球環境を守るのは、人間自身です。神仏ではありません。そして、人の運
命も、神仏の御力によってのみ決定するのではなく、その主決定者は自分自
身です。
  人は神の奴隷ではありません。自分の人生の創造主は自分自身です。自分
の意思で心臓を動かせるかと言われたら、それは動かせません。しかし、人
間は自分の意思で自殺しますから、やはり自分の人生を自分で決定している
ことになります。
  このように人間に主体性があるからこそ、釈尊は、「天上天下唯我独尊」
とおっしゃっているのです。これは、自分なるものが最も尊いということで、
釈尊お一人が尊いという意味ではありません。私達はこのことを「我身如来」
といっています。裏表紙の絵図から、神仏と一体である自分の大事さがわか
ります。
  結局、「人間は生かされている」というのは、神仏(自然)の恵みに感謝
するという意味に受け取った方がよさそうです。そして、人間は生かされて
いるのではなく、人間自身が神仏、あるいは悪魔を動かしているというのが
真実です。そこに人間の尊さがあり、人間としての責任の重大さがあるわけ
です。「天上天下唯我独尊」は、人間の尊厳を説いているのです。

  このことについて私の恩師は、『末法の癩人』(恩師の著書…ホームペー
ジからダウンロードできます)の中の「神を動かす人間の発見」というとこ
ろで、次のように述べています。

  ☆
  お釈迦様の時代にはお釈迦様以前に宗教があったんだ。お釈迦様は仏教だ
が、この釈尊の仏教が三千年に至らんとしている今日、なお地球上に広がっ
ている。では、そのお釈迦様の尊さは何処にあるのか。

  『真理の花たば法句経』というのがある。そこに、「それはともあれ、神
々に対する人間の優位を自覚した、仏陀の偉大なる精神は…」とこうある。
言い換えれば神様より人間の方が偉いと言う仏陀の精神は、ということにな
る。ルネッサンスにおける人間の発見に勝るものである。実に偉大な発見だ。
其処に仏陀の偉大さがあるわけがある。

  人間を唯の人間として扱わず、神より優位で神より勝れているということ
を発見された。それが法華経なのだね。だから人間が人間を礼拝する。即ち
人間が仏であり、人間が神であり、人間がそのまま悪魔であるというところ
から人間の生活の基本ができる。つまり、人間の世界の倫理が出てくる。世
界全体の共通なる倫理だね。今のような地域的な倫理、国とか土地によって
異なる倫理ではない。

  たとえば、ある時は一夫一婦、ある時は一夫多妻、また地域等によって夫
婦の倫理が異なるというようなものではない。世界共通の倫理は、実は先祖
養道なんです。それそのまま仏、神なの。それそのまま宇宙倫理なのだ。
  それは人間が神仏よりも優位を示しているという人間の発見に、釈尊の偉
大さがある。しかし、神様より偉いと言うのではない。この自然界における
人間という立場こそ、神よりも勝れた地位にいるんだ。つまり、『神を動か
す者は人間である』ということなのです。
  ☆

  今までの既成宗教は神仏や偉大な先師先徳を尊ぶあまり、人間の尊厳を見
失い、人間の真のあり方を無視してきたために、その因果として、現今の世
の中が混乱しているのです。これは解消して真の人間の世の中を作っていく
には、懴悔滅罪の信仰しかありません。
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  質問16人類の始まりはアダムとイブの二人と聞いていますが、「わが
生命の真のあり方」の絵図と食い違いますね。
  答え16:人類の始まりはアダムとイブの二人とされていますが、裏表紙
の絵図を見ると、先祖の数は四代前は三十二人、十代前は二千四十八人、三
十一代前は四十二億人以上となり無限に続きます。そして宇宙の生命の総合
体(神)につながります。この絵図に間違いはありませんよね。自分に親が
なければ自分は生まれてきませんし、その親にもまた親がいたわけですから。
  仏教には無始無終≠ニいう考え方がありますが、人類の先祖もどこから
始まったのかと考えるより、始めなき始めから終わりなき終わりまで、無限
に続くと考えた方が無理がありません。
  もし、最初の人間がアダムとイブだとした場合、アダムとイブの子は誰と
結婚したのですか? 一人では人間は増えませんからね。地球にもともとい
た人の娘と結婚したのでしょう。その娘にも親があり、その親にもまた親が
あるわけですから、アダムとイブの他にも人類はいたということです。人類
の始まりはアダムとイブの二人、という説は明らかに破綻します。
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  質問17:裏表紙の絵図の説明をしてください。
  答え17:この絵図は私の恩師が天授開顕されたものです。ある時の法座
でお話しくださったもので、要点だけ記しますと、御宝前(南無先祖養
道の本尊をまつってある祭壇)で、一所懸命念願している時に、この親子の
つながりの絵図がパァーと広がってきたので、急いで書きとめたのだそうで
す。
  この絵図を見ていると、いろんな事がわかってきますが、疑問もあります
ね。その疑問をまず解決しましょう。つまり、例えば、三十代前の先祖は二
十一億人以上いたことになりますが、人間の一代を三十年としますと、約九
百年前になります。果たしてこの時代に、二十一億人もの人間がいたのかと
いう問題です。実は私もこの疑問に対してうまく説明できません。もっとよ
く、恩師に伺っておけば良かったと思っています。
  しかし、この不思議な絵図に間違いはありません。自分という生命は親が
いなければ生まれてきませんし、親もその親がいなければ生まれてきません。
こうしてたどっていくと、三十代前は二十一億人、三十一代前は四十二億人
の親が確かにいたことになるのです。そこで、ひとまずその疑問はおあずけ
にしてください。信仰が進めば、いずれ氷解する時がくると思います。

 (1) 彼我一体…さて、もう一度絵図を見ていただきたいのですが、これ
を見ていると、自分の父母のどちらかが欠けても、当然自分は生まれてきま
せん。同様に、何代か前の先祖が誰か一人欠けても、やはり自分は生まれて
きません。してみると、先祖の一人一人が自分と不可分につながっているこ
とがわかります。自分と先祖とは一体だということです。そしてこれは、世
界中の生命と自分とは一体であることをも意味します。つまり、彼をいじめ
ることは、自分をいじめることです。人を大事にすることは、結局は自分を
大事にすることになります。自分を大事にすることは、父母を始めとして、
自分の回り一切を大事にすることです。
  このことから、人間の生き方が見えてきます。つまり、物質偏重の世の中
では、どうしても自分さえ良ければ良いという考え方になるため、人間の真
のあり方から外れているので、必ず行き詰まります。心、精神、愛情を重ん
じる世の中へ移行しなければなりません。そのためには、この絵図を元にし
た教育が必要です。この思想を学校教育に取り入れることで、いじめ問題な
どは皆無になります。
  また、この仏説による親孝行の思想を世界にひろめることで、無理なく世
界平和が達成できて、世界一体生活時代が到来します。地上天国が実現しま
す。
  ですから、この「わが生命の真のあり方の絵図」は、二十一世紀宇宙時代
の地球標準思想の中核をなすものです。

 (2) 我身如来…この絵図の究極は、宇宙の生命の総合体(神とも仏ともい
う)になります。つまり、自分という生命は、親、先祖を通して、神仏と直
接つながっているということです。そこで「我身如来」ということがわかり
ます。このことを簡単に言いますと、自分の人生を決定するものは、神仏で
はなく、自分自身であるということです。自分の思念、行為が自分の人生を
決定します。釈尊の「天上天下唯我独尊」というお言葉は、「釈尊一人が偉
い」という意味ではなく、「各自、自分なるものが最も尊い」という意味で
す。そのわけは、各自、自分が自分の人生の決定者、創造者だからです。                                                                                                                    
  そしてまた、先祖の中心は自分自身であり、自分と先祖とは一体ですから、
自分を立派にすることが先祖を立派にし、自分を救うことがそのまま先祖を
救うことになるのです。自分を救う道が「懴悔滅罪の大法」です。自分が菩
提心を起こすことが肝心です。
  また、釈尊と我々人間の違いは、「我はすでに成じた仏、汝らはこれから
成じようとしている仏」ということで、本質的に違いはありません。釈尊と
我々人間とは一枚岩なのです。もちろん、他の一切の生命ともつながってい
るわけです。

 (3) 先祖供養はエゴイズム…絵図を見ると多くの先祖がいることがわか
りますが、どこまでもたどっていって、何代までの先祖で終わりということ
はありません。自分の父母が一番身近ですが、宇宙の生命全体が自分の父母
といえるわけです。ということは、アメリカ人も中国人もアフリカ人も皆ど
こかで自分とつながっているわけです。ですから、いわゆる「先祖供養…せ
んぞくよう」は、自分の家族、身内さえ良ければ、良いという家族的エゴイ
ズムになり、生命の真のあり方に反することになるので、現代においては、
「先祖供養」は間違いです。「先祖供養」も、自分の一番身近な親、祖父母
から始まるのは当然ですが、それで終わりにせず、森羅三千生きとし生ける
もの一切の生命への礼拝、尊重につながれば良いわけです。ここまでくれば、
もはや「先祖供養」を通り越して、「先祖養道…せんそぎょうようどう」
ということになります。
  これからの時代は、「先祖養道…せんそぎょうようどう」でなければ
なりません。これは、「自分の回り一切が自分の父母であり、また、自分が
一切のものの父母である」という生きていき方です。これを仏説による父母
孝養・師長恭敬といい、また大愛道ともいいますが、二十一世紀はこの生き
ていき方でなければ人類の繁栄はない、ということがこの絵図から感じ取れ
るのです。
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  質問18他の宗教を批判するのは良くないのではありませんか?
  答え18:他の宗教を批判をしているつもりは全くありません。真実を述べ
ているだけです。もともとこの世の中には否定すべきものはありません。も
しあるとすれば、それは自己否定≠ナす。これは言いかえると懴悔…さ
んげ=i一切の善悪を自分の責任と認め、自分自身を「浄妙」すること…洗
い清め、新しく、より良いものに生まれ変わらせていく)です。
  宗教が人間生活とかけ離れたものなら、私達凡夫にとっては無意味なもの
になりますが、宗教とは人間の生活そのものですから、時代が変わり、人間
の生活も環境も変われば、当然教えの内容もその時代に応じて変わってきま
す。ということは、七百年前の日蓮聖人の信仰…南無妙法蓮華経が現代では
通用しないばかりか、かえって悪影響を及ぼすということです。
  このことは、日蓮聖人ご自身「教・機・時・国・序」(五綱の教判)とい
って、「時…今がどういう時代であるか知ること」が大切であることを明ら
かにしています。

  宗教も各国、各地域によってことなり、多種多様ですが、どの教えが現代
と現代に生きる人間に適合するかは、比べてみれば誰でも分かることです。
たとえていえば、お金は一円から一万円まで等しくお金ですが、使うなら一
万円の方が良いということです。
  そして、宗教が単に心の支え程度の役割のもので、人間社会にそれ以上の
影響がないのなら、人それぞれに合った信仰を持てば良いのですが、宗教本
尊は、それを信仰する人の人生に善悪ともに大きな影響を及ぼしますから、
何でも良いとは言えません。
  信仰はその人の思想に影響を与え、そこから行動が生まれます。例えば、
神仏第一主義の信仰だとすると、その人の生活態度はどうしても神仏を頼り
にし、自分の責任ということが薄れ、自分自身を改善していくことを忘れて
しまいます。全てを神仏の責任にしてしまうので、主体性がなくなります。
  昔からよく言われたことですが、隅田川をきれいにするのも人間、汚すの
も人間です。悪魔が川を汚し、神仏が川をきれいにするのではありません。
人間自身に主体性があるのですから、それを奪うような宗教は明らかに邪教
といえるでしょう。それほど宗教の悪影響は恐ろしいものです。また、逆に
真実の信仰は、人間の世の中を正しく導き、崩れない幸福を作っていくもの
です。ですから、宗教の正邪ははっきりさせる必要があるのです。
  そういうようなわけで、批判をしているのではなく、本当のことを知って
いただきたいということです。
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  質問19:先日テレビで悪霊払いを見ましたが、これは有効ですか?
  答え19:はっきり言って効果はありません。そのわけは、悪霊に憑依され
るには憑依されるだけの原因が本人にあるからです。懴悔滅罪もなく、自分
自身を変えることもしなければ、根が残っているので、一時的に悪霊が離れ
ることがあっても、またすぐに戻ってきます。ですから、悪霊を追い払うと
いう発想は不可なのです。
  悪霊には死霊(死者の霊)と生霊(生者の魂)がありますし、一体だけで
はなく、複数の霊が憑依している場合もあります。これらは主として過去世
または現世で、人の恨みをかうようなことをしてくると、憑依される原因に
なります。
  ですから、追い払うのではなく、功コを積むことによって、自分の業を浄
化し、その悪霊の成仏を図るしかありません。具体的には、仏説による父母
孝養・師長恭敬の信仰、修行によります。このことが自分を変え、懴悔して
いることになるので、自分の業が根本から浄化され、再び悪霊に憑依される
ということはなくなります。
  分裂病をはじめとする精神病の多くは憑依霊が原因ですが、この懴悔滅罪
の大法の実践、修行によって必ず完治します。
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  質問20親の信仰を子供に押し付けるのはいかがなものか?
  答え20:その信仰にもよりますが、少なくとも私にとって、自分の信仰を
子供に伝えるのは、子供への重要な家庭教育だと思っています。
  信仰にお経はつきものですが、「お経はご先祖のご飯だから…」という説
明は方便的で、「自分の魂のため」というのが真実です。
  仏様(その御教え)に巡りあうことがいかに難事で尊いことかは、経文には
『一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し』(大海の中に住む片目の亀が百年に
一回水上に浮かび出て、たまたま波上に浮かぶ木の穴にその首が入ることの
ようなもの)とたとえてあります。(妙法蓮華経妙莊嚴王本事品第二十七)
  私の恩師は、この尊い御教えに巡りあえるのはあなた方自身の過去の功コ
による、とおっしゃっています。
  自分がこの大法に来世にも巡りあい、教えをいただく因縁を作るためには、
子供や或いは縁のある人にこの法を伝える必要があります。自分が伝えるか
らこそ、次の世で伝えてもらえるのです。因果一実です。
  例えば子供に先祖養道を教えます。その子が家庭を持った時、またそ
の子供に先祖養道を教えることができます。その子供も同様です。実は
自分から見て、孫や曾孫など縁の深いところに自分が生まれ変わってくるこ
とが多いので、自分が教えたことを今度は教えてもらうことになるわけです。
  自分の子供や縁のある人に先祖養道を教えずに、自分のところでこの
大法を止めてしまうと、仮に自分が亡くなった時、お経をあげてくれる人も
いないし、御教えを伝える人もいなくなるので、次の生で自分が再び仏の御
教えに巡りあうことは難しくなります。
  ですから、来世の良い因縁を作るために、この法を伝えていくことは非常
に大切です。それに、子孫が自ら読経することが、故人が子孫に菩提心を起
こさせたことになるので、その功コが故人の成仏を助けます。

  お経を読むことを子供の教育という点から見ますと、先祖養道は親、
先祖を大事にする精神が自然と身につくので、立派な家庭教育です。それに、
親、先祖を大事に思わないものが回りの人を大事にするわけがなく、周囲の
人を大事にしないものが世の中に出て、調和していけるはずがないので、勉
強する時間がなくても、お経だけはあげるように私は子供達に勧めています。
  一番下の子(当時中一)は友達に「家ではお経をあげている」と言って、
「悲惨!」といわれたそうなので、私は「そんなことはない。皆ができない
ことをやれるんだから、もっと誇りを持ちなさい」と言っています。
  中学生ぐらいになってから急に習慣付けるのは難しいので、子供がまだ小
さいうちから家族一緒に御宝號を唱えると良いのです。
  子供は先祖の生まれ変わりですから、御宝前でのお参りは自分で自分を拝
んでいることになります。そのせいか、小さい子は拝むことを好みます。で
すから、最初は御宝號を三回ぐらい唱えることから始めて、小四なら要結品
のP19〜22のところだけあげ、それからだんだん長くします。家族の人が毎
日決まった時間に一緒に読経すると良いのです。
  家族一人ひとりに御宝前にお供えするコップを決め、朝は銘々がお供えし
ます。お水は八分目ぐらいで、ただ御宝前に置くのではなく、「おまつりさ
せていただきます」と口に出すか、あるいは心で唱えるようにと、心を使う
ように教育します。
  子供が大きくなってから、お経をあげるよう勧めるには、本人の悩み事を
キッカケとして、その解答を得られるから熱心に問題をぶつけてみるように、
御宝前に座って汗かいて御宝號を唱え、その時に、「この問題はどうしたら
よいでしょうか?」と、御宝體様に問いかけるように、と勧めるのが良いと
思います。必ず何かの形で解決法が見つかり、それが体験となります。

  このようにして、まず自分の家族から法を伝えます。子供も高校生くらい
になると、お経をあげた方が精神的にも良いということが分かってきて、素
直に継続するようになるものです。
  家族に子供がいない場合は、摂折して、法の上の子供に法を伝えていけば
よいのです。
  もしお導きをせずに、自分だけ拝めばいいとした場合、これは、はっきり
言って信仰にはなりません。少なくとも浄妙教団の信仰ではありません。な
ぜなら、それは利己主義だからです。
  信仰とは、わが生命はすべての生命とつながり、一体であるという実相に
基づいて生活することですから、自分だけ信仰すればよいという利己主義的
な考えは、真の信仰からはかけ離れたものです。法を伝える努力こそが懴悔
滅罪の信仰なのです。この努力なくして、自分の病・貧・争を滅することは
できません。利己主義こそが病・貧・争の元になっているわけですから。
  病・貧・争の元である利己主義を脱する行法が仏説による親孝行、即ち
『一切の人を視ることなお仏の想いの如くし、諸々の衆生において父母の想
いの如くする』ということ、言い換えると、自分の回りはすべて自分の父母
であり、また自分は一切の生命の父母であるということで、その具体行は摂
折ということです。
  子供への教育は結局、自分が仏説による父母孝養・師長恭敬を実践するこ
とによって、子供にそれを教えるということになります。
  子供にこの大法を伝えないということは、自分が子供に対して利己主義を
働くことになるので、子供が成長した時、因果応報でその報いを受けること
になります。
  私の所でもそうですが、子供のことで心配ごとがあり、親が悩む場合、親
の方の因縁なので、私は恩師の御教えを実践しようと努めています。その功
コによって、子供は立派になるものと私は確信しています。
  伝教大師のお言葉…『道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし』を私は
自戒の言葉にしていますが、この道心ある自分、仏説による親孝行の自分を
作る過程で、現の功コが現れて、家が狭いとか、経済的困難とかのあらゆる
環境問題は自然と整ってきて、本当にありがたいと思います。
  そして、これは老人問題の解決にもなります。つまり、各人の仏説による
親孝行こそが高齢化社会の真の福祉です。これによって来世の良い因縁を今
作っていきたいと私は思います。

  『子は親の後ろ姿を見て育つ』といわれますが、これは自分が親、先祖を
中心とした生活をして、子供には背中を向けた方が子は育つ、と私は解釈し
ています。もちろんこれは、子供には愛情をかけなくても良いという意味で
はなく、親、先祖の方に重点を置くということです。
  逆に自分が子供を中心にすると、親、先祖には背を向けることになるので、
かえって子は親不孝になります。自分が親に対してしたことが、そのまま子
供から返されることになります。子供に親孝行してもらいたかったら、自分
が自分の親、先祖に対して孝行すれば良いのです。子供はたいてい、どちら
かの先祖の生まれ変わりだからです。因果一実、少しの狂いもありません。
(子供に親孝行させた方が、その子にとっては大きな功コになりますので、
子供を大事に思うなら、親孝行させましょう。)
  私は子供に対する心配ごとはそのまま自分の反省材料にしています。
  しかし、自分と子供との間の因縁は前世からのものですから、反省だけで
なく功コを積むことによって、今世こそ暖かい思いをかけて、その因縁を良
い方向へ変えていこうと思います。
  それには仏説による親孝行(世のため人のためになること、即ち摂折)が
最高の功コ…親のためにも、因縁の浄化のためにも…になると思いますので、
その実践を決意しています。
  自分が功コを積むだけでなく、子供にも功コを積ませたいので、子供にお
経巻やお数珠を授けるのに、私は子供自身のお小遣いを出させています。
  『自分の救いは自分の費用と責任で!』というのが浄妙教団の信仰指針で
す。まして、お経巻やお過去帳は多くの先輩の方々の浄財で出来ていますし、
どれほど苦労されてきたか、私はよく知っていますので、それをタダでもら
うわけにはいかないのです。
  「こういうものはタダでもらうものじゃないし、お前たちのお小遣いが次
の人のためのお経巻を作るのに使われるのだから功コになる」と言って、そ
のお小遣いを出させています。
  そして、仏説による親孝行…大愛道の精神が身につけば、「類は友を呼ぶ」
で、やはりそういう精神の人が我が子の嫁なり婿なりになって、嫁姑の問題
は起きません。そして、永遠に繁栄する家庭となるのです。
  ですから、子供にお経をあげさせるということは、後々まで本当に良い影
響を与えます。正しい信仰を子に伝えることは、親としての責任であると思
います。
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  質問21人間礼拝という言葉がよく出てきますが、具体的にはどういう
ことですか?
  答え21:人間礼拝という言葉は神仏礼拝ということに対比しての言葉のよ
うに思われますが、実は別々のことではなく、神仏礼拝の内容が人間礼拝と
言うことです。
  つまり、「わが生命の真のあり方のゑ図」を見ていただきたいのですが、
私達は親、先祖を通じて無限の生命につながり、ひいては神(宇宙の生命の
総合体)につながっています。ですから、親、先祖をはじめとして一切の生
命を礼拝、尊重することはそのまま神仏を敬っていることになります。それ
で人間礼拝こそ真の神仏礼拝になるということです。
  逆に、自分の親、先祖、一切の生命を無視して、神社、仏閣へ参拝して願
い事をしても、それは通らないということになります。
  経文(妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十)には、一人の菩薩が「我深く汝等
を敬う、あえて軽慢せず。所以は如何、汝等皆菩薩の道を行じて、まさに作
佛することを得べし」と言って、人間を礼拝し、終には功コ成就して作佛し
たとあります。(神、仏を拝んだとは書いてありません。)その菩薩が釈尊
の過去世というわけです。

  私達は実生活で、常不軽菩薩のように人を礼拝して歩くことは、心の中で
はできても、実際には難しいです。ですが、縁のある方のご法名(戒名)を迎
えて朝夕礼拝することはできます。これは人間礼拝をしているのと同じ事で
す。つまり、菩薩の道を行じているのです。
  そしてまた別な面から言えば、浄妙院コのご法名(浄妙○コ院○○善士、
善女)をおくることでその霊魂が救われるので、過去帳にご法名を書写し、
朝夕礼拝することは、過去世に迷惑をかけたかもしれないその相手に対して
の自分自身の懴悔であるということです。相手が救われることで、自分の罪
が帳消しになるのです。

  いずれにしても、偶像崇拝や仏像礼拝が神仏礼拝になるわけではありませ
ん。浄妙院コのご法名を書写した過去帳を朝夕礼拝することが、真の意味で
の神仏礼拝になるのです。もちろん、日々の生活の規範として、父母を敬う
ことは当然で、仏説による父母孝養・師長恭敬(一切の人をみること、なお
仏のおもいのごとくし、もろもろの衆生において、父母のおもいのごとくせ
よ)を心がけることが大切です。
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  質問22:普通の神社仏閣では、私たちがお参りして何かを祈願すれば、
忙しい私たちに代わってお寺の方でずっと念願してくれるようですが、浄妙
教団では違うんですか?また初詣はどこが良いですか?
  答え22:信仰を持たない人でも、この時期に各地の神社仏閣に初もうでを
する人が多いですね。私の二男も、お正月に友達と初詣に行きたいがどこが
いいかというので、浄妙教団が良いと答えました。
  そのわけは、大勢の人が集まる神社仏閣というのは、そこに集まってくる
人達はお金が欲しい、物が欲しいとかの欲望の人やあいつが憎い、こいつが
憎いなどの恨みつらみを持った人が多いので、そういう悪想念の集まる場所
には、神様、仏様はおいでにならず、地獄霊の類いしか集まって来ないので、
かえって波動の悪影響を受けるからです。

  マザー・テレサのような精神の人が集まるところには、神仏がおいでにな
るでしょうから参拝しても良いでしょうが、そういう所はなかなかありませ
んね。悪い想念のところには地獄霊の類いが集まり、善い想念のところには
神仏の霊が来るということはよく考えてみれば、類は友を呼ぶで当たり前の
ことですよね。ですから、自分の想念を良くすることが念願達成の第一歩で
す。
  今日では、たいていの神社仏閣は悪霊の住み処となっていますから、当然
何かの念願をしても通るはずがありません。もし通ったとしてもそれは悪霊
の力によるもので、本物の功徳ではありません。
  ですから寺社などで、厄除けとか交通安全祈願とかいって人を集めますが、
これは看板にいつわりありです。そういうことはありえません。よく神社仏閣
のお参りの帰りに交通事故にあったというニュースを耳にしますが、それが
よい証拠です。こう書くと、他を批判するのはよくないと思われるかも知れ
ませんが、事実を隠す方がもっと悪いです。 
  それに祈願というのは、お金を出して誰かに代用してもらうという性質の
ものではありません。自分で行うものです。浄妙教団では、同信の方から
本営に何かの念願があれば、本営の担当者が総法号を書写してしばらくの間
お経をあげて、その後は念願する方自身でお経をあげてもらうようにしてい
ます。
  そのわけは、自分の因縁は自分が作ってきたものなので、自分の懴悔によ
るしか解決しないからです。自分はお金を出すだけで、他人が代わって懴悔
するという事は出来ません。本営の担当者が総法号を書写したり、お経をあ
げさせていただくのは、その担当者自身の懴悔ということです。念願者の問
題に対して責任があるということ、または同じ因縁を持っているということ
で、総法号の書写によって担当者自身の因縁もなくなります。つまり、念願
する人の問題はそのまま本営の担当者自身の問題で、他人の問題ではないと
いうことです。本営では自分の問題として、念願、懴悔させていただくので、
恩師のおことばのように、『正しい念願なら、かなわないものはない』
ということになるわけです。ですから、ご本営に参拝して祈願するのが最善
です。

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 ☆『要結品』というのは、『大乗方等経典(要結)』のことで、常不軽台学
国明先生編輯、浄妙教団発行の日々に読誦するお経巻のことです。
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