【 釈迦如来五時の説法 】
仏教は八万四千の法蔵といわれるくらい沢山の教えがあります。その教え
の一つひとつは貴い教えではありますが、その教えにも段階があるのです。
たとえば、釈尊の在世当時、八十歳で亡くなるまでの約五十年間教えを説い
て来たわけです。その教えは生きている人を相手にしているわけですから、
当然、時代の変化に応じ、また相手の成長に応じ、人生経験が深まるにつれ
て教えの内容も変わってくるわけです。宗教というものは生活と共にあるわ
けですから、それは当然の事です。生活は変化しているのに教えだけが変わ
らないというのでは、その教えは死んでいると同じです。
真理は不変だから、釈尊の教えはすべて現代に通用する、と考えるのは正
しくありません。時代の変化、人々の機根の進歩に同調するからこそ生きた
仏法となるわけです。生きた仏法だからこそ、人々を救い得るわけです。
仏法が時代と共に進展するのは二つの理由があります。一つは教えを受け
入れる人々の機根の問題、二つ目は、末法の世になるにつれて人々の業障が
深くなるので、信仰の功コ力が問題の解決に及ばなくなるということです。
一つ目の機根の問題は、たとえば釈尊が成道してから最初に説いた教えが
華厳経ですが、これは難しすぎて当時の人々に理解されず、二十一日間の説
法で終わっています。そこでその人々に合った教えが必要となり、人々の進
歩につれて教えもより高度になってくるわけです。
二つ目は信仰の功コの問題です。宗教は単に心の支えになるだけでなく、
病・貧・争の解決になり、人々の実生活の役に立ったからこそ、今まで続い
てきているわけですが、たとえば、病気の原因の一つであるウィルスに対し
て、同じ坑生物質を使っていると、ウィルスの方が薬に慣れてきてついには
効かなくなります。それだけウィルスが強くなるわけです。
人間の悪業障の因縁もこれと同じで、正法、像法の時代から末法の世に近
づくにつれ、《業》も深く強くなるので、正法、像法の時代に功コがあった
教えでも末法では通用しなくなります。これがその時代に適合した仏法が必
要となる理由です。そこで今はどういう時代でどの教えが適合するかという
ことが大事な問題になります。
そこで、日蓮聖人は《時》ということを重視するわけです。『仏法を学せ
ん法は必ず先ず時を習うべし』というお言葉があります。
たとえば、仏教の戒律は男は二百五十戒あると言われていますが、これは、
それが必要な時代と場所もあったということです。
現代は宝號誦持の生活、御宝號(南無先祖
養道)を唱える懴悔滅罪の
生活をしていけば、意識しなくても自然と人間の守るべき道を順守するよう
になります。これが大乗無戒の戒と言われるものです。
戒律も無戒の戒も共に仏教ですが、これも時代の進展と人々の機根の進歩
に伴う教えの進化と言えるでしょう。
そこで釈尊の教えをその説かれた順序に従って、五時の説法に分けて見ま
すと次のようになります。
第一時は華厳経で、華厳宗の所依の経典です。これは仏教の宇宙観を説い
たもので、最高の経典といわれるが、難しすぎて当時の民衆には理解できな
かったため、三七日間(即ち二十一日間)で終わったとされます。ですから
これは短い間の説法なので別にして、学校教育にたとえると、
第二時…阿含経(十二年間)は小学時、
第三時…方等経(八年間)は中学時、
第四時…般若経(二十二年間)は高校時、
第五時…法華経(八年間)は大学時の教育にあたります。
これを釈尊五時の説法と呼んでいます。これはその時代の人々の機根に応
じて説かれてきたもので、最後の法華経が出れば、それ以前の教えはすべて
法華経に含まれることになり、その利益を失います。もちろん、他の教えを
否定するわけではなく、大学教育を受けるには、それまでの教育は必要では
あるけれども、大学で、小学教育を受け直す必要はないということです。ま
た、例えば、お金は一万円札だけがお金ではなく、一円玉も五円玉も等しく
お金として認められるべきものですが、しかし使うなら、一万円札の方が良
いということです。要するに、仏法の結論は法華経にあるのです。
この法華経は無量義経(開経)、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経(結経)
の三部からなり、全部で十巻三十二品です。妙法蓮華経(八巻二十八品)だけ
では不完全、未完成なわけです。
この観普賢菩薩行法経が結論中の結論(最終結論)ということになります。
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