【 いわゆる先祖供養ではありません 】
はじめに…無学大士の説かれた『先祖供養道』を「せんぞくようどう」
といい、それを更に推し進めた常不軽台学大士の『先祖養道』を「せん
そぎょうようどう」といって、区別しています。

  無学大士の先祖供養道(せんぞくようどう)はいわゆる先祖供養ではありま
せん。無学大士が増子先生(無学大士の法統護持者、後述)に命じて書かせた
告白書にも、「祖先ノ法名ヲ悉ク取リ集メ……」とあり、自分の親、先祖は
第一歩であって、自分の身内だけに限定してはおりません。また、無学大士
は川に流れてくる位牌を拾って供養したということからも、無学大士の実践
した先祖供養道は常不軽菩薩の人間礼拝行(すべての生命の礼拝…一切の生命
を自分の親と見、子と見る)そのものであり、これが、仏法の真の実義なので
す。
  
 ☆ 真の実義とは見せかけではなく、仏との本当のつながりがあるというこ
と。つまり、仏の功コが生活上に実際に流れてくるということです。
  
 ☆ 無学大士は、その行跡と、「未来は不軽菩薩となるべし」の日蓮聖人の
御遺文(寺泊御書)により、日蓮聖人のご再誕といわれています。不軽菩薩と
いうのは、妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十の常不軽菩薩のことで、人間を礼
拝(=常不軽の行)して仏になったという方で、釈尊の過去世のことです。先
祖供養道はその人間礼拝の具体行です。

  『告白書』をお読みいただくとわかりますが、「僧侶等はそれことごとく
国賊なり…」と、僧侶を否定しているのですが、R会では『在家仏教』とい
う言い方で、暗に出家を認めていることからも、無学大士の御精神が消えて
いることがわかります。勿論、先祖供養の教団の教え全てを否定しているわ
けではありません。いずれは各教団も大御宝號(南無先祖養道)に転進す
る日が来ると思います。
  自己の懴悔滅罪(さんげめつざい)を目的としている浄妙教団は、生活即宗
教という点からも、また職業も懴悔の一手段ということからも、現在の僧侶
のような出家は認めていませんから、出家・在家の区別をしないわけです。
ただし、教団運営に従事する各種の職員は出家とは違います。立派な職業の
一つと考えます。
  ここまで書くと、お葬式の問題が出てくるわけですが、浄妙教団では法名
者が御法名をおくり、縁のある同信が集まって、遺族を中心にして皆でお経
をあげます。家族や同信が自らお経をあげるからこそ、その養(ぎょうよ
う)が届いて故人の成仏につながるのです。僧侶に読経してもらい、自分たち
は聞いているだけというのでは「ぎょうよう」になりません。懴悔というこ
とを忘れているからです。誰でも字が読める時代には、僧侶は読経を専売特
許とせず、本来のあり方、すなわち懴悔滅罪の信仰生活に戻るべきでしょう。
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