【 御本営建立 】
  川崎の南幸町にあった本営では狭いので、修行道場が必要ということで、
千葉県山武郡九十九里町に移った訳ですが、これは当時、R会専務理事だっ
たIさんという方にぜひにと請われて九十九里町に滞在し、今の本営のある
場所が見つかったということです。
  この場所は沼地のような所におがくずで埋め立てしてあって、こっちで足
でドンと地面を踏むと向こうの端まで響いたそうです。十トン車で五十台も
新たに土を入れて造成したと先輩から聞きました。
  先生の信仰活動は真実の追求にあり、全ての宗教活動は御自身の懴悔滅罪
と受け止め、名は体を表すの諺通り(台学…土台を学ぶ、廷台…台を明らか
にする)、基本を確立し、それが本物か否か確かめ、弟子にキッチリ伝える
ことに重点があり、ご自身の懴悔滅罪を徹底的に押し進めたのです。この行
の一つに行法経の一字一字で身を包むということがあり、これは無学大士の
お作りになった大過去帳に、浄妙○コ院□△善士の○の部分に漢文の行法経
を一字づつ入れた浄妙院コの御法名を書写するものです。これは亡くなる二
〜三年前に完成したのです。
  ですから、信仰上、金を集めて教団の拡大を図るということは一切なさら
ず、あくまでも懴悔滅罪一筋でした。教団が大きくなっても本物の信仰者が
いなければ、砂上の楼閣と同じで崩れてしまうので、人数は少なくても本当
の信仰を持った弟子を育てることに腐心されたのです。
  先生は決して世間に媚び諂うことはなく、信者は多くありませんでしたけ
れども、それは教祖として『法』を純粋に守るためには止むを得ぬことだっ
たのです。
  たとえば、先生は秘密の金は受け取りません。…ある信者が先生のあまり
の貧乏ぶりに見かねて、三百万円持ってきたのですが、先生は「亭主は承知
か?」と聞いて、「内緒!」と答えたその信者に、「持って帰れ!」とその
お金の包みを投げ返したそうです。これは先生ご自身がお話し下さったこと
です。
  
  このような貧乏教団であったため、先生は勿論のこと、ご本営建立当初の
諸先輩の方々は大変御苦労されたのです。
  それでもやはり、先生お一人でご苦労なさったと言ってもよいと思います。
土地建物の名義は先生のお名前になっていましたが、これは銀行借入のため
にやむを得ぬ措置だったのです。銀行は宗教法人にお金を貸しませんから。
  教団の親金庫が東金信用組合(現在は合併して別名称になっている)にな
っているのは、最初にそこから、当時の創業者理事長に直談判して、「宗教
は君、事業だよ」と言って、借入したからです。当時の東金信用組合の理事
長は「うーん、一晩考えさせて下さい」、「いいとも一週間でも、一ヶ月で
も検討してください」と答えて、その間、本営では「先生と理事長との間に
関交する因縁」、「借り入れに関交する因縁」などを供養したそうです。
  そして、翌日、当時の東金信用組合のナンバー2の反対にもかかわらず、
三百万円借入れのオーケーが出たのです。 
  このため、東金信用組合を将来もずっと教団の親金庫としていくようにと、
恩師は常々おっしゃってました。
  
  何もない所にできた本営が現在のように美しくなるには、先生の一方なら
ぬ愛情とご努力があったのです。先生はここで先祖養道…大愛道の実験
をするということで、地元の人には、ここは潮風が強いので草花などの小物
は育たないと笑われたそうですが、沢山の種類の植木、草花などを植えてど
れも立派にお育てになりました。先生はまさに愛情の人だったのです。
  しかし、先生のご趣味は植物を育てるということではなく、人を育てるこ
とで、そこに大きな喜びがあったようです。某教団のある先生も恩師のご指
導を受けた方ですが、その先生が松の盆栽を育てるのが好きだというのを聞
いて、恩師は「人を育てることに喜びを感じるようでなくてはいけない」と
私たちを諭して下さいました。
  九十九里の海岸付近は風が強く、台風などで倒壊の恐れがあるので、建物
は二階建てにしないのが当時の地元の常識でした。それを先生が初めて本営
を二階建てにしたのです。恩師が九十九里にお住まいになってからは、台風
の因縁の浄化ということもあって、大きな台風は来なくなったのです。それ
で、その後九十九里にも二階建ての家が多くなったのです。
  現在の本営になるまでには二回ほどの増改築が行われましたが、いずれに
しても恩師は勿論のことですが、諸先輩の大変なご努力、ご苦労があったこ
とは間違いありません。
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