【 跨節中間の大士 】

常不軽録学大士御尊影
御俗名は 中田「ろく」という字郎ですが、「「ろく」という字」という字は法号文字ではないので、
御尊号には「録」の字を使用しています。
常不軽録学大士御尊影
    中田「ろく」という字郎先生(観普賢院常不軽録学大士)の御遺文…
    (前略)
  かくて末法今の時は行じて説くのである。行じて後に口舌文章あり、行ず
るのみにして、口舌なく、文章なきも又必ずしも不可ならず。ただ佛縁に任
せて進退すべきである。「易きを捨てて難きに就くは丈夫の心なり」と、此
の聖語に背かざれば、この人世間に行じてよく衆生の闇を滅するであろう。
  されば今時説法の儀式は、教より行を打出せず、行より教を詮顕する。時
代回転して佛教回転し、佛教回転せるが故に、説法の儀式もまた回転してい
る。皆順正法の道は先づ説くべきでなくして、先づ行ずぺきである。信によ
って行を起こし、行によって学を出生する。これをもって聖祖は、広をすて
て略を取り、略をすてて要を取った。要とは上行所伝の題目であって、南無
妙法蓮華経の七字ではない。佛法はかくて法華経十巻より寿量品の肝心たる
妙法蓮華経に移り、妙法蓮華経より飛躍超勝して上行所伝の題目に回転した。
  上行所伝の題目(すなわち、南無先祖養道)は教義を絶し、
言論を絶し、文案を絶し、哲学を絶している。一切の思議と論理の世界を蹴
散らして、末法万年の時代に君臨するもの……これを詮顕するの道はただ行
験の一途のみ。名づけて題目身唱という。口にあらず、文にあらず、ただ生
活…かくて皆順正法は、皆順世間法と回転したというのである。

-----------------------------------------------------------
 ☆ 中田「ろく」という字郎先生の御経歴
  中田先生は、東京法学院(中央大学)を卒業、弱冠二十才で弁護士試験にパ
スして後、幾度か静岡県弁護士会長に就任。また、市会議長たること三回。
昭和五年二月、武藤山治氏の国民同志会所属として代議士に当選された。
  一方、明治四十年から社団法人救護会の社会事業に参画され、大正十四年
同会の理事長に就任し、雅子夫人に保育事業を担当させつつ、晩年まで尽瘁
された。その間、静岡県社会事業協会副会長、大日本社会事業報国会理事長
等に選任され、是等の功労により藍授褒章を二回授与された外、数々の表彰
を受けられた。
  しかし、先生の真骨頂は、その宗教生活にあった。三十二才で日蓮上人の
信仰に入られ、天賦の英才により、別頭独一の境界を証悟し、開示せられた
が、先生の法華経の特色を一言でいえば、日蓮上人の開宗宣言、観心本尊鈔
等、上人在世の題目と、滅後の題目をハッキリ峻別し、我等の行ずべき題目
は、南無妙法蓮華経の七字ではなくして、上行所伝の題目であり、これこ
そ懴悔滅罪の因果の源頭であると力説せられた点にある。
  中田先生の多数の著述は、常不軽無学大士の実践された行跡を、理論的に
明確に裏付けられた点において、まことに因縁の不思議を感じざるを得ない
次第である。故に本教団では、無学大土に対し、録学大士の御法号をおくら
せて戴いたのである。
  昭和三十二年八月十二日、七十六歳御入寂、御葬儀に際しては、天皇陛下
より金一封の御下賜あり、更に従五位勲四等に叙された。(浄妙教団機関紙
『浄妙世界』より)

 ☆ 「跨節中間の大士」といわれる所以は、南無妙法蓮華経と大御宝號
(南無先祖養道)をつなぐ中間のお役目の大士であられるからです。
前のページへ戻る このページのトップ次のページ