【 まえがき 】
本書で明らかにしたいことは三つあります。
一つは、先祖供養道の祖師であられる常不軽無学大士の法統を明らかにす
るということ、二つ目は人間の真実のあり方…本仏は各自、自分だというこ
と…を明らかにするということ、そして三つ目は生命の一体観を明らかにす
るということです。
この三つを明らかにすることによって、釈尊の本旨がどこにあるのかをは
っきりさせ、私達は何をなすべきかを明確にしたいと思うのです。
また、「白法隠没して大白法顕わる」という予言もあり、二十一世紀は新
しい宗教の勃興する時と言われています。そこで『大白法』とはいかなるも
のかを明らかにして、二十一世紀の宗教を明示したいと思うのです。
一つ目については、先祖供養(せんぞくよう)は間違いで、『先祖
養道』
(せんそぎょうようどう)が正しいということです。
二つ目の「本仏は各自、自分」というのは、一切の責任は自分自身にある
ということです。各自、自分が一切の責任者だから、「自分なるものがもっ
とも尊い」(天上天下唯我独尊)となるのです。
そして、善も悪も自分の責任なので、ここに「懴悔滅罪」の意味がありま
す。その懴悔滅罪の具体的行法が仏説による親孝行(父母孝養・師長恭敬)
です。仏説による親孝行というのは、言いかえると『人間礼拝』ということ
で、実はこれが仏教の最終結論です。この実践によって以って、個人や家庭
の幸福も世界の平和も、人類の無限の発展も生まれてきます。
そして、この『人間礼拝』が二十一世紀宇宙時代の生活行になるでしょう。
三つ目については、絵図(裏表紙参照)から、私達の生命は一つにつながっ
ていることが分かります。
釈尊は最初から人間存在の尊さを、『天上天下唯我独尊』という言葉で教
えているのです。妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十には、過去の世の釈尊は、
人間を礼拝して仏になったと説かれています。ところが現代のほとんどの宗
教は、神仏を第一義としていて、釈尊の本旨と違背しているのです。神仏を
中心として人間を疎外してきた結果が、人間の世の中を混乱させているので
す。
したがって、二十一世紀の宗教は神仏を第一義とする宗教ではなく、人間
を礼拝する宗教になるべきです。これが「宗教における地動説」です。
人間を第一義としなければならないことは、大橋信史著『サイババ 神の
降臨』には、次のように出ています。
「最後に出現するプレマ・サイババは人間が内在の神をいだくのみならず、
人間という存在が神であることを説きます。そして、どの人間も神であると
教えるのです。それは人類最高の英知であり、その教えは全ての人間を神の
境地に高めます」
この『プレマ・サイババ』というのは、現在のインドの聖者、サティア・
サイババは九十四才前後に亡くなって、その八年後に再誕する時の名前です。
「どの人間も神である」という教えは、浄妙教団信仰綱領の(一)、久遠本
仏・我身如来にあたります。『我身如来』ということを最初に説かれた私の
恩師(常不軽台学国明大士)の佛眼に、今更ながら驚嘆いたします。浄妙教団
の信仰とサイババの教えとの関係については、サイババの五つの根本原理
(真理・正義・平安・愛・調和)の実践が南無先祖
養道であると私は考え
ています。
本書を通じて、「仏説による親孝行…人間礼拝」ということがいかに尊い
ものであるか、そして、人類の未来の方向にいかに合致しているかというこ
とを汲み取っていただければ、有り難く存じます。
なお、実践編として、第9章で「人間関係改善の秘法」を紹介してありま
すので、ぜひご活用下さい。
☆人間が人間を礼拝し、人間が人間を尊重する新しい世の中を作りましょう。
平成十八年一月 常不軽 修学(倉田 修一)
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