【 誤解された先祖供養道 】
先祖供養はエゴイズム…
R会のK先生の先祖供養は増子先生から学んだわけですが、無学大士の三
十三周忌前ですから、後継者として認められた訳ではありません。K先生は
本当の先祖供養道を学びそこねたのです。
『源、濁りぬれば流れ清からず』のご聖訓の通り、最初に間違えれば後々
まで影響するのは理の当然です。先祖供養の教団でありながら先祖(無学大
士)を忘れてしまう結果となるのです。
K先生は先祖供養でありながら、その教えのもとを無視する結果になって
います。そのために、多くの人を導き救ったはずなのに、御自分は胃ガンで
亡くなるようなことになったのです。これは、K先生に集中してきた信者の
因縁を、南無妙法蓮華経では成仏(浄化)させられなかったいうことです。
いわゆる先祖供養は本当の救いにはならないのです。
(私個人としては、K先生は私の恩師の胃病の因縁を引き受けて下さった
方なので、やはり偉大な先生であったと思います。)
結論を申しますと、K先生の過ちは先祖供養道をいわゆる先祖供養に落と
してしまったということです。
沖縄にしても韓国にしても非常に先祖供養の盛んな所ですが、例えば沖縄
は太平洋戦争で、往復ローラーをかけられるようにめちゃくちゃにされまし
た。もし先祖供養ということが、正しいことであるなら、そういう目に合わ
ないはずです。いわゆる先祖供養が自分の親、先祖だけの供養であるため、
これは家族的エゴイズムになるのです。生命の一体観を唱える仏旨に反する
のです。
日蓮聖人は親の葬式に行かなかったという話がありますが、これは親不孝
からではなく、自分の親だけが親なのではなく、自分のまわりすべてが親で、
その人達を救うというもっと大きな親孝行のためであり、それが親の後生を
助けることになるわけです。内典の孝経といわれている法華経を身読された
日蓮聖人が親不孝であるはずがありません。
無学大士の先祖供養道は妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十の常不軽菩薩の人
間礼拝行(すべての生命の礼拝…一切の生命を自分の親と見、子と見る)そ
のものであり、これが仏法の真の実義であります。
先祖
養道(せんそぎょうようどう)といわゆる先祖供養(せんぞくよ
う)の違いは、生命一切の礼拝(神仏の世界をも貫くもの)と、自分の身内だ
けの供養ということの違いにとどまらず、仏法の真髄(「視一切人猶如佛想、
於諸衆生如父母想」…一切の人をみること、なお仏のおもいのごとくし、も
ろもろの衆生において、父母のおもいのごとくせよ…仏説観普賢菩薩行法経
中の経文)に合致するか否かの大きな違いです。また、懴悔滅罪の信仰と物
欲信仰の違いとも言えます。ここを混同しないでいただきたいと思います。
ともかく、現在の先祖供養の教団に流れているのは無学大士の御教えでは
なく、K先生の教えであって、元の御教えとは似て非なるものです。形は同
じでも心が違うのです。いわゆる先祖供養は、自分の親先祖だけの供養とい
う、いわば家族的利己主義の教えに変貌してしまっているので、無学大士の
御教えに違背しているといえます。人間礼拝の第一歩は、自分の親、先祖か
ら始まるわけですが、生命は一体ですから、それにとどまっては生命の真
のあり方≠ゥら外れてしまうということです。
私の恩師、常不軽台学大士のお話によると、後年、K先生はその間違いに
気づいてKK先生にR会の解散を命じたのですが、無視されたまま現在に至
っているということです。
人間として先祖の供養は当然の事で、これを否定しているわけではありま
せん。私たちもそれから入っています。ただ、自分の身内だけの供養で終わ
るならば、それは家族的エゴイズムとなり、仏旨に反します。自分という生
命の本来のあり方を忘れてはいけないということです。
先祖供養は常不軽の行(人間礼拝行)の第一歩で、本来、無限です。別な
言い方をしますと、すべてが自分の親であり、先祖です。そして自分がすべ
ての親であり、先祖です。
生まれ変わりのことを考えて見ますと、例えば今の私は日本人で、すぐ前
の前世も日本人でした。が、それ以前は何代前かわかりませんが、中国の南
方系の人間だったと言われたことがあります。それが本当ですと、中国に私
の子孫がいることになります。私と中国人とはつながっているわけです。も
し私がその前、アフリカ人だったら、アフリカにも私の先祖と子孫がいるこ
とになります。人間に生まれれば幸いですが、もし私が前世、犬やネコだっ
たら、犬やネコも私の子孫ということになります。このようにして人種を越
え、種族を越えて生命の世界は一つにつながっていることがわかります。で
すから、いわゆる先祖供養のままではいけないことがおわかりになると思い
ます。
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