【 先祖供養と先祖養道の違い 】
(せんぞくようと せんそぎょうようどう)
    先祖養道は仏法の最終結論…
  先祖供養というのは、一般的に自分の身内だけの供養をいいますが、我が
生命の真のあり方からすれば、遠い近いの差こそあれ、全生命は一つにつな
がっていて、全てが自分の親、先祖になります。ですから、自分の身内だけ
の供養では、家族的利己主義ということになり、我が生命の真のあり方から
外れていることになります。ですから、先祖供養は二十一世紀の地球一体生
活時代には合致しません。
  先祖養道(せんそぎょうようどう)というのは、その第一歩は父母、師
長から始まりますが、自分の父母だけではなく、一切の生命の世界の尊重、
礼拝を意味します。それは、神仏の世界をも貫くものです。自分のまわり全
てを自分の親、先祖として生活する、この先祖養道=c大愛道は、世
界の平和と安穏の源泉です。ですから新世紀には、先祖養道こそが真の
幸福と繁栄の元になるもので、仏法の最終結論です。

 日蓮聖人は『自分を救うものは自分である』、『主体は自分である』とい
うことを示した方です。    
  それは佐渡以後に今までの激しいまでの対他折伏が、対自折伏(善悪の責
任は自分であるということ…つまりサンゲ)に変わったことでわかります。
 日蓮聖人の生まれ変わりであられる無学大士は、更に発展させて、『自分
というものの組立て、あり方…自分と他の生命とは一体であるということ』
を実践されたのです。これが表面的には先祖の供養と見えるのですが、本質
は『常不軽の行』としての人間礼拝行なのです。これは一番身近な関係から
始まりますが、自分の身内でおわるものではないので、いわゆる『くよう』
の概念をはるかに越えたものです。仏様から見れば全てが仏の生命の現われ
ですから、区別のしようがないでしょう。ですから、私は無学大士の信仰を
先祖の供養とはとらえていないわけです。

 そして最後に『自分というものがわかったのだから、どう行じていくか、
どう生活していくか』という具体的生活行が、先祖養道ということです。
これは先祖の供養という、いわば一方通行的なもの(自分と先祖とを別体に
考え、先祖の成仏を願う)に対し、自分と先祖(すべての生命)とは一体で
あるので、例えば先祖の御法名を書写する行為は自分の病気、貧乏、争いご
とを解決します。そしてそのことが先祖が成仏しているという証明になるの
です。ですから現界と霊界の両方の供養になっています。ともどもに救われ
るので『ぎょうようどう』というわけです。両方通行です。
 「先祖の始まりは自分の知らない遠い人」というのが『せんぞくよう』で
す。
  「先祖の始まりは自分であって、その中心は他ならぬ自分自身」というの
が『せんそぎょうようどう』です。(それで『自分が成仏しなければ先祖は
成仏しない』となります。)
 見方を変えますと、『先祖の供養』ということには自分というものがない。
主体性がない。自分というものをそのままにしておいて、悪業の自分を浄化
しようとしないで、ただ先祖の成仏を願うということは、自己の懴悔観がな
いということです。
 これに対して『先祖養道』は自分の責任、自分が先祖の中心ということ
ですから、自分と先祖とは一体なので、自分の浄妙がそのまま先祖の成仏に
なっている。自己の懴悔滅罪の結果、自分が浄妙(今世において、悪業をあ
らいきよめ、新しく生まれ変わること)されて、現世において幸福になると
いうことがそのまま先祖の成仏になっています。
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