【 上行菩薩としての自覚 】
法華経が真実だとすれば、上行菩薩が再誕することになっています。です
から、日蓮聖人としては、上行菩薩がお出ましになるその露払いとして、活
動されていたわけです。ところがやってもやっても出て来ない。そのうち、
佐渡へ島流しにされてしまう。そこで、御自分の行跡を振り返って見て、自
分が上行だという自覚を持たれたのです。
日蓮聖人の題目…南無妙法蓮華経は知らない人はいないくらい有名です
が、今となっては太陽が出るまでの残月にすぎません。そのことを日蓮聖人
自ら、御書のあちこちで言明しているのです。
南無妙法蓮華経は「自分だ」という意味ですが、南無阿弥陀仏の「阿弥陀
仏によって自分が救われる」に対して、「阿弥陀仏によって救われるのでは
なく、自分によって自分が救われる」ということを理論的に打ち出したもの
なのです。
大白法にあたる大御宝號(南無先祖
養道)は、自分によって自分が救わ
れるその具体的行法、生活の仕方です。理論はあっても具体的行法がなけれ
ば、実際の生活の役に立ちませんから、私達現代人は、南無妙法蓮華経では
なく、南無先祖
養道と唱えるべきなのです。
このようにして、ご宝號は時代に応じて段階的に発展しており、ひとつの
流れであり、相対立すべきものではなく、最後の大御宝號(南無先祖
養
道)に統合されるべきものであることがおわかりいただけることと思います。
では次に、日蓮聖人の御遺文から、南無妙法蓮華経は未完成、不完全であ
ることを調べてみましょう。
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