(幸福追求権) 東京地判昭和39.9.28 判時385号12頁(小説「宴のあと」事件・プライバシー権訴訟) (判示事項) プライバシーの権利侵害による不法行為の成否 (裁判要旨) プライバシー権は、「私生活を私生活をみだりに侵害されないという法的保障ないし権利」であると理解されるとし、 プライバシーの侵害に対し法的な救済が与えられるための要件として、 1 公開された内容が (イ)私生活上の事実または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのあることがらであること、 (ロ)一般人の感受性を基準にして当該私人の立場に立つた場合公開を欲しないであろうと認められることがらであること、換言すれば一般人の感覚を基準として公開されることによつて心理的な負担、不安を覚えるであろうと認められることがらであること、 (ハ)一般の人々に未だ知られていないことがらであること、 2 公開によつて当該私人が実際に不快、不安の念を覚えたこと を必要とし、 3 公開されたところが当該私人の名誉、信用というような他の法益を侵害するものであることを要しない、 とした。 (判決理由抜粋) (三) もつとも、被告等は私生活をみだりに公開されないという意味でのプライバシーの尊重が必要なことは認めzるけれども、それが実定法的にも一つの法益として是認され、したがつて法的保護の対象となる権利であるかどうかは疑問であると主張する。 しかし近代法の根本理念の一つであり、また日本国憲法のよつて立つところでもある個人の尊厳という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによつてはじめて確実なものとなるのであつて、そのためには、正当な理由がなく他人の私事を公開することが許されてはならないことは言うまでもないところである。 このことの片鱗はすでに成文法上にも明示されているところであつて、たとえば他人の住居を正当な理由がないのにひそかにのぞき見る行為は犯罪とせられており(軽犯罪法1条1項23号)その目的とするところが私生活の場所的根拠である住居の保護を通じてプライバシーの保障を図るにあることは明らかであり、また民法235条1項が相隣地の観望について一定の規制を設けたところも帰するところ他人の私生活をみだりにのぞき見ることを禁ずる趣旨にあることは言うまでもないし、このほか刑法133条の信書開披罪なども同じくプライバシーの保護に資する規定であると解せられるのである。 ここに挙げたような成文法規の存在と前述したように私事をみだりに公開されないという保障が、今日のマスコミユニケーシヨンの発達した会社【社会】では個人の尊厳を保ち幸福の追求を保障するうえにおいて必要不可欠なものであるとみられるに至つていることとを合わせ考えるならば、その尊重はもはや単に倫理的に要請されるにとどまらず、不法な侵害に対しては法的救済が与えられるまでに高められた人格的な利益であると考えるのが正当であり、それはいわゆる人格権に包摂されるものではあるけれども、なおこれを一つの権利と呼ぶことを妨げるものではないと解するのが相当である。 (四) 右に判断したように、いわゆるプライバシー権は私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利として理解されるから、その侵害に対しては侵害行為の差し止めや精神的苦痛に因る損害賠償請求権が認められるべきものであり、民法709条はこのような侵害行為もなお不法行為として評価されるべきことを規定しているものと解釈するのが正当である。 そしてここにいうような私生活の公開とは、公開されたところが必ずしもすべて真実でなければならないものではなく、一般の人が公開された内容をもつて当該私人の私生活であると誤認しても不合理でない程度に真実らしく受け取られるものであれば、それはなおプライバシーの侵害としてとらえることができるものと解すべきである。 けだし、このような公開によつても当該私生活とくに精神的平穏が害われることは、公開された内容が真実である場合とさしたる差異はないからである。 むしろプライバシーの侵害は多くの場合、虚実がないまぜにされ、それが真実であるかのように受け取られることによつて発生することが予想されるが、ここで重要なことは公開されたところが客観的な事実に合致するかどうか、つまり真実か否かではなく、真実らしく思われることによつて当該私人が一般の好奇心の的になり、あるいは当該私人をめぐつてさまざまな揣摩臆測が生じるであろうことを自ら意識することによつて私人が受ける精神的な不安、負担ひいては苦痛にまで至るべきものが、法の容認し難い不当なものであるか否かという点にあるものと考えられるからである。 そうであれば、右に論じたような趣旨でのプライバシーの侵害に対し法的な救済が与えられるためには、公開された内容が(イ)私生活上の事実または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのあることがらであること、(ロ)一般人の感受性を基準にして当該私人の立場に立つた場合公開を欲しないであろうと認められることがらであること、換言すれば一般人の感覚を基準として公開されることによつて心理的な負担、不安を覚えるであろうと認められることがらであること、(ハ)一般の人々に未だ知られていないことがらであることを必要とし、このような公開によつて当該私人が実際に不快、不安の念を覚えたことを必要とするが、公開されたところが当該私人の名誉、信用というような他の法益を侵害するものであることを要しないのは言うまでもない。 すでに論じたようにプライバシーはこれらの法益とはその内容を異にするものだからである。 このように解せられるので、右に指摘したところに照らしても、本件「宴のあと」は少くとも前記(二)末尾で説示した範囲では原告のプライバシーを侵害したものと認めるのが相当である。 (原告が掲げる侵害箇所の指摘表挙示のその他の叙述については、後に判断する。) 五、違法性阻却事由について プライバシーの保護がさきに指摘したような要件の下に認められるものとすれば、他人の私生活を公開することに法律上正当とみとめられる理由があれば違法性を欠き結局不法行為は成立しないものと解すべきことは勿論である。 (一) しかし、小説なり映画なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられない。 それはプライバシーの価値と芸術的価値(客観的な基準が得られるとして)の基準とは全く異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからである。 それゆえたとえば無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、この場合でいえば通常の女性の感受性を基準にしてそのような形での公開を欲しないのが通常であるような社会では、やはりその公開はプライバシーの侵害であつて、違法性を否定することはできない。 もつともさきに論じたとおり、プライバシーの侵害といえるためには通常の感受性をもつた人がモデルの立場に立つてもなお公開されたことが精神的に堪え難いものであるか少くとも不快なものであることが必要であるから、このような不快、苦痛を起させない作品ではプライバシーの侵害が否定されるわけでありまた小説としてのフイクシヨンが豊富で、モデルの起居行動といつた生の事実から解放される度合が大きければ大きいほど特定のモデルを想起させることが少くなり、それが進めばモデルの私生活を描いているという認識をもたれなくなるから、同じく侵害が否定されるがそのような例が芸術的に昇華が十分な場合に多いであらうことは首肯できるとしても、それは芸術的価値がプライバシーに優越するからではなく、プライバシーの侵害がないからにほかならない。 (二) また被告等は言論、表現の自由の保障がプライバシーの保障に優先すべきものであると積極的主張二のとおり主張するけれども、本件についてはその主張するところは正当でない。 もちろん小説を発表し、刊行する行為についても憲法二一条一項の保障があることはその主張のとおりであるが、元来、言論、表現等の自由の保障とプライバシーの保障とは一般的にはいずれが優先するという性質のものではなく、言論、表現等は他の法益すなわち名誉、信用などを侵害しないかぎりでその自由が保障されているものである。 このことはプライバシーとの関係でも同様であるが、ただ公共の秩序、利害に直接関係のある事柄の場合とか社会的に著名な存在である場合には、ことがらの公的性格から一定の合理的な限界内で私生活の側面でも報道、論評等が許されるにとどまり、たとえ報道の対象が公人、公職の候補者であつても、無差別、無制限に私生活を公開することが許されるわけではない。 このことは文芸という形での表現等の場合でも同様であり、文芸の前にはプライバシーの保障は存在し得ないかのような、また存在し得るとしても言論、表現等の自由の保障が優先さるべきであるという被告等の見解はプライバシーの保障が個人の尊厳性の認識を介して、民主主義社会の根幹を培うものであることを軽視している点でとうてい賛成できないものである。 (三) 被告等は原告が右にいう公的存在であつたことを理由に侵害行為に違法性がないと主張する。 なるほど公人ないし公職の候補者については、その公的な存在、活動に附随した範囲および公的な存在、活動に対する評価を下すに必要または有益と認められる範囲では、その私生活を報道、論評することも正当とされなければならないことは前述のとおりであるが、それにはこのような公開が許容される目的に照らして自ら一定の合理的な限界があることはもちろんであつて無差別、無制限な公開が正当化される理由はない。 とくに私生活の公開が公人ないし公職の候補者に対する評価を下すための資料としてなされるものであるときはその目的の社会的正当性のゆえに公開できる範囲が広くなることが肯定されるであろうけれども、本件のように、都知事選挙から1年前後も経過し、原告がすでに公職の候補者でなくなり、公職の候補者となる意思もなくなつているときに、公職の候補者の適格性を云々する目的ではなく、もつぱら文芸的な創作意慾によつて他人のプライバシーを公開しようとするのであれば、それが違法にわたらないとして容認される範囲はおのずから先の例よりも狭くならざるを得ない道理であり、おおむねその範囲は、世間周知の事実および過去の公的活動から当然うかがい得る範囲内のことがらまたは一般人の感受性をもつてすれば、被害意識を生じない程度のことがらと解するのが妥当である。 (以下、略) (備考) この裁判は、控訴審で和解成立により終了した。 G:\e-Satto\e-Kenpou\myDATA\東京地判昭和39.9.28判時385号12頁(小説「宴のあと」事件・プライバシー権訴訟).html 最二小判令和4.6.24 (ツイッター投稿記事削除請求事件)参照 刑法第133条(信書開封) 正当な理由がないのに、封をしてある信書を開けた者は、一年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。 ●衆議院・衆憲資第94号「新しい人権等」に関する資料 https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi094.pdf/$File/shukenshi094.pdf |